どうかしてますよ! との一言から、すっかり取り乱した恵は、誰にともなく、独り話し始めた。彼女は混乱やら、何処からか沸いてくる怒りやらを落ち着かせる為にそうしたが、はた目に見て、酷く滑稽だ。
 しかし敬一が困ってまあまあ、と諭せば、何を呑気な、と更に眉を釣り上げさせるばかりで、結局彼は黙って聞くしかなかった。
「お母さんから聞いてましたけど、ここまでとは……」
「え、なになに、何を聞いたの」
 そわそわしながらも黙っていた敬一が、パッと顔を上げた。自分の事を、姉は何と言って表したか、敬一は期待半分、不安半分で恵を見つめる。
「お人好しだって」
「………………」
 敬一は笑顔をぎこちなくしたが、恵は彼に構う事なく、厳密には思考に意識を傾けたまま、口を動かし続ける。
「それも相当。面倒を押し付けられるタイプだって。頼まれたら断れない、典型。うん、正に今お母さんの言ってた事が分かった」
 敬一はそろそろ泣きそうだ。
「おお、おお、正にそれだな。敬一はすぐ厄介事を引き入れる」
「ええー……そこに厄介まで加わるの」
「加わる加わる。臭わんか? 厄介事の臭いが」
「はあ? 臭い? 臭いって……」
 はた、と恵の思考が止まった。

「嗚呼、臭う臭う。既にひとつ、餌に釣られた畜生がおるぞ。さてどうなる事やら」

 敬一がはっとした。
 知らず会話を交わしていたと気付いた恵が、唖然と青年を見やった。
 いつの間にか振り返っていた青年は、何が楽しいのか、美しい笑みを湛えた。

「これは、違う……何処から」
 視線を巡らせる敬一の横で、青年から目を離す事なく、恵が眉を潜ませた。
「叔父さん?」
「何処だ、庭、か………? っ、天弧!」
 敬一の声にびくりと震えた恵を面白そうに見つめたまま、青年が口を開く。
「代償はなんであろ?」
「おま、本当がめついな!」
「このむす、」
「恵は駄目! いなりがあっから!」
「れいぞうこ、か」
 何故か焦っている敬一に、恵がおろおろする内。
「仕方なし。今回はそれで手を打とう」
「あっ、此処じゃ駄目! 廊下行け廊下!」
 慌ただしく青年の背中を押し、敬一は玄関へ向かい、廊下へ出て行ってしまった。
 呆気に取られた恵を1人置き去りにし、ドアを閉める前に一言、ちょっと待っててと言い残して。

「え…………なん、え、なんなの今の?」

 そろり、ドアに近付く。その度、畳がきしきしと鳴いた。
「………あれ」
 板張りと畳の間に差し掛かった時、隙間から光が漏れている事に気が付いた。蛍光灯とも炎とも違う、青白い光。
 ごくりと硬い唾を飲み込む。ゆっくり、ゆっくり、ドアへ近付き、その手がノブを掴もうと伸ばされた。
 その時――

 ガタン! と大きくドアが軋んだ。
 しかし恵はドアがどのような音を立てたのか、聞き取る事が出来なかった。何故なら鳴ったのはドアだけでなく、台所の小さな窓も、背後にある縁側へと続く部屋の窓も、同時にガタガタと震え出したからである。
 まるで突風に吹き付けられたようなその現象に、恵の顔は色を無くし、声にならない声を上げて、蹲った。部屋の電気は点滅を繰り返し、まるでこの泡沫荘全体が悲鳴を上げているようだった。
 恵は耳を押さえ、固く目を瞑り、何度も、訳も分からず、敬一を呼んだ。
「っ叔父さ、叔父さん! 叔父さん!」

 やがて、音は止み。

「さん、叔父さん………!」

 恵の嗚咽だけが残った部屋に、ひとつ、気配が増えた。敬一でもない、青年でもない、細やかなそれに、彼女は気付かない。
 震える恵に影を落として、そっと、その者の手が伸びる。

「ひっ、う、叔父さん……」
「それを食らうと、敬一に怒られるぞ」

 触れる直前で、はっとしたようにその手は引っ込んだ。それと同時に、目の前に立つ彼の声に、恵が薄く目を開けた。

「っ! おじさ………!」
 勢い良く頭を上げて。

「これぐらいで取り乱すとは、血は受け継いでないと見えるな、娘」
「は………………」

 あり得ない、と思った。
 彼女の頭に浮かんだのはその言葉だけであり、後は真っ白だった。
「まあ……継がぬ方が良いものもある」
 それもそのはず、自棄に耳障りの良い滑らかな声は、あの酷く美しい青年のものだと、間違いようもなく記憶に刻まれている。
 ところがどうだ。その声を発するのは――漸く動き出した思考に、しかし恵はすぐに考える事を放棄したくなった。
 青年な筈。目の前にいるのは、青年の筈なのだ。
 しかしながら、居るのは青年ではない。

 何度瞬こうと、彼女の常識があり得ないと訴えようと。

「き、ききききき」

 目の前で声を発するのは。

「狐が喋ったああああああ!!」

 ぎゃー! と、今度こそ恵は盛大に悲鳴を上げて、後ろに倒れた。











◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇








 やれ、ひとの悲鳴は良いものだ、と機嫌良さそうな声を後ろに、敬一はタオルで顔半分を覆った恵に、気遣わし気な声をかける。
「大丈夫?」
「うー、あんまり、大丈夫じゃありません、けど……」
 ゆるゆると起き上がる恵の額から、タオルがずり落ちる。それには構わず、敬一は素早く彼女を支えた。
「なんか、寝てても癪に障るので大丈夫な事にします」
「おお、癇癪はいかんぞ。最近の若者はキレやすいというあれか」
「誰のせいで………!」
 ぎりぎりと歯軋りする恵を、敬一がまあまあと諫める。彼女は確実に苛立っていたが、それをゆっくり息を吐き出す事で押さえると、努めて冷静に声を出した。
「で?」
 恵の嫌悪のこもった眼差しに、敬一と狐、2人共が首を傾ける。
 小娘の忍耐力などたかが知れている。せっかく装った平静をあっさり崩し、だから! と声を荒げた。
「一体何なんですか!? この、このー………」
「………狐」
「狐! ……狐? きつ、狐は喋んないでしょ!? 何なの!? 何なのほんとに!」
 指を鍵爪のように曲げて、わなわなと震える恵は、どうやらもう興奮を抑える事を諦めたようだ。すっかり混乱した様子の彼女に、敬一がため息を吐いた。敬一の後ろに座る狐は、くあ、と欠伸を漏らしていた。
「あのね、この狐は、ただの狐じゃないんだ。勿論、人間でもない」
 諭すような敬一の話に、恵の顔から色が無くなっていく。すー、と青白くなったかと思えば、がばりと耳を押さえた。
「恵ちゃん」
「いやいやいや、無理無理。居ないから。そんなん居ないから。だって居たら怖いじゃん。否定派です。私否定派なんです」
 困り顔の敬一に向かって、恵が首を振る。それでも苦笑いで首を傾けた敬一を見れば、事実から逃げるわけにいかず、泣きそうに顔を歪めた。
 耳を押さえる恵の手に、敬一がそっと触れる。
「古来から、もののけとか、妖怪とか、そう呼ばれる者の類い」
「いや違います」
「そう、だからね………………うん?」
 真顔の恵の思ってもみない返答に、敬一が瞬いた。
「違います。そういうの居ないから。だって居たら怖い」
「いや、うん、それさっきも聞いたけど」
「だから居ないんです。あれはちょっと変わった狐です」
 あれ、と指を差されて、見た目狐な彼が、む、と眉間に皺を寄せた。
「いやあのね、あの子は天弧といって、」
「なんか白いし、なんか尾っぽが多いけど、狐です。どう見ても狐」
「無礼な娘だな。我を畜生と同じに扱うでない」
 ぎろりと音がしそうな視線を恵が向ける。
「いや世の中変わった狐が居るもんですねー」
「ほう我に挑むつもりか。よし買ってやろう小娘」
 恵いわく変わった狐、天弧が、すっくと立ち上がる。
「喋る狐なんて、高く売れそうですよね」
「貴様の足らぬ頭では、我のような高尚な存在を理解出来ぬだろうな」
「サーカスに売ったろかこの馬鹿狐」
「貴様を売ったところで二束三文にもならぬだろうしな」
 ハラハラと視線を行ったり来たりさせている敬一の前で、近付いた2人は睨み合っている。
「狐鍋にして食うぞ」
「貴様は食う気も失せる」
「口先狐」
「しょんべん臭い小娘が」
「臭くないわ失礼な!」
「まあ、ちょっとは腹の足しになろう。食ろうてやろうか?」
「食えるもんなら食ってみろこの狐が!」

 にやり、と笑った天弧が、かぱり、口を開けた。
 敬一がはっとした。
 そして次の瞬間。

「てい!」
「きゃん!?」

 恵の手刀が、天弧の脳天に直撃した。
 一瞬何が起こったのか判らぬ天弧と敬一を余所に、今度は恵がにやりとほくそ笑んだ。
「管理人に逆らったら、ご飯抜きよ」
 叩かれた頭を押さえ、唖然と恵を見返す天弧に、堂々言ってみせて、彼女は満足気に微笑んだ。

 さあさあ、彼女は分かっているのか。
 自ら管理人となる道を選んだ事を。


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