ブラックベルト
「フェルさん!」
彼が吹っ飛ばされるのを、私は瞬きも出来ずに見ていた。咄嗟に鉄柵に寄り、彼の姿を探す。 向かいの塀、コンクリートの塀に彼の姿を見付けた。頭から、さあと血の気が引いていく。
「フェルさん!」
悲鳴じみた叫びを上げ、駆け出そうとしたが、腕を捕まれた。
「油断したねえ」 「っ、」
低く冷たく。 「杖が無いからって、舐めてもらっちゃ困るわ」 「は、放して……」
無慈悲で冷徹な声。なんて声を出す。なんて声を出すんだ。 身体の芯から冷やすような声に戦慄し、漏れるよに出した私の声も、震えた。
「あっ!」
ぐいっと身体を引き寄せられる。反転し、両手首を頭上で拘束される。鮮やかな早業に、文字通り手も足も出なかった。
「いけないねえ、お嬢さん」
お嬢さんと呼ばれる歳ではないが、そんな事を気にする余裕は無かった。 ぐんと近付いた端正な顔。栗色の瞳に、剣呑な光が宿っている。それは、捕食者の瞳。獣の眼は容易に私を震え上がらせる。絶望的末路が脳裏を侵食する。
「一体どうやったのかしら?」
美しいバリトンボイスで女言葉を操るも、私の両手を簡単に片手で封じる力は生易しいものではない。 するりと顎のラインをなぞられ、締め付けられるような息苦しさを覚えた。 這う指は首に回され、決して力は入っていないのに、息が出来ない。|彼《・》が、私の首をいとも容易く、ぽっきりと折る様子が、ありありと頭に浮かぶ。
「このあたしを捕まえるなんて、どんな魔法を使ったの?」
ぱしんと、頬を張られた気がした。 恐怖の檻に居た筈の私が、目を見開くと同時に、思い出した、青を湛える誠実な瞳。 そうか、そうだ。 決定打。そんな言葉が浮かぶ。
想像を確信に変えて、相手を睨む。言葉の綾なんかでは無い。『魔法』それをさも当り前のように受け入れている。そういう人を、私は知っている。 答えに至った今、怖じ気付いてる暇はない。とは言え、足は震えているし、相変わらず息苦しいしで、恐怖の鎖は私にしっかり絡み付いている。 でも、これは私が片付けなければならない。知っている私が片付けるべき問題だ。 ともすると挫けそうな心を、私だけが、と言い聞かせ奮い立たせる。ぎゅうと拳を握った。 掌は驚く程汗ばんでいるけれど。 指は怖いぐらい冷たかったけれど。
「ま、ほう、なんか、使ってません」
使う事に違和感を感じ得ない私とは、違う。その単語を身近に、当り前に、暮らしてきた人。 情けなくなる程柔弱ではあったが、初めて抵抗の意思を見せた私を、彼は意外そうに見詰め返した。
「……ふうん?」
何のふうんなんだかは定かじゃないが、これでもかと私にのしかかっていた威圧感が、薄れた。 代わりに、赤い唇の片側が、くいと持ち上がり、栗色の瞳が、品定めするように私を眺める。
「舐めてもらっちゃ困るわ。さっきも言ったわよねえ?」 「違う、と、フェルさんも言いました」 「あれを信じる理由が無い。貴女を信じる理由も、無いわね」
この人、なんで楽しそうなんだろう。私の目が節穴でないのなら、彼は笑っている。面白そうに細められた瞳は、私が何か言う度に、イキイキと輝く。なんだ。何なんだこいつは。
「信じろなんて言いません」 「あらおかしいわねえ? さっき貴女、中に誘わなかった? その中に」
くいと顎で私の部屋を指し示す。
「なら外でもいい。ただ此処では困ると、そう言ってるんです」 「可愛くない子ねえ」
と言いながら、唇は完全に愉悦に歪んでいる。
「構わないんです」 「?」
小さく首を傾げた相手の肩から、絹糸のような金髪が、さらりと滑り落ちる。
「あなたが、何処ぞへ行こうと、何をしようと、私は一向に構わない。行くならどうぞ、好きにすればいい」
こんなふうに肝が座っているのは、人生経験のおかげでも元々備わってる訳でもない。多分私は、何かが振り切れてしまったんだと思う。 あまりに非日常的な恐怖に晒されたせいで、脳の一部が麻痺してしまったんじゃないだろうか。脳内麻薬とか、すっごい出てる気がする。
「……どういうこと?」 「どうもこうもありません。あなたなんか興味無い。だからそこを退いて」
これは本当だ。私は正体のよく判らない美女擬きを相手にするより、一刻も早く彼の元へ行きたいのだ。アパートとの2階から向かいのブロック塀まで、どれだけの距離があると思っているんだ。無傷とは到底思えない。 だから早く――
「何処へなりと行けばいい。追ったりしない」 「………………」
そこを退け。 私なりに強い意志を込めて相手を睨む。それに僅かに目を見開いた金髪は、次の瞬間。
「ぶふっ」 吹き出した。
顔を俯かせ、くっくと肩を震わせる。流された前髪がさらりと落ちた。 な、なんで笑われてんだ私……。 呆気に取られた私の前で、あっさり拘束を解き、口元を押さえて尚も笑う。 白くほっそりとした指は美しく、しかし簡単に私を押さえ付けるだけの力強さと大きさを備えている。自然と目に入った彼の手は、ぞわりと背筋を冷やし、忘れ掛けていた危機感を呼び覚ました。
弾かれたように慌ててそこから脱出する。手摺りを背に、まだ背を丸め笑う背中を睨み付けた。何がそんなにツボったのか知らないが、助かった。 ジリジリとゆっくり距離を取る私を、金髪はチラリと横目に見てきたものの、笑いが収まる気配はない。 目線を寄越された瞬間に、私がびくりと身体を緊張させたのが、馬鹿みたいに思えるんですが。 訳は判らないがどうやら引き止める気は無いらしいので、203号室の前、笑う秀麗な男から遠慮なく離れる。 202号室に差し掛かかるまでに後退した時、男が漸く顔を上げた。
ぶわり、と途端に物凄い威圧感に襲われる。 安い蛍光灯の下でも損なわれる事の無い美貌。足元から、得も言われぬ冷たさが這い上ってくるような感覚に見舞われる。 妖艶な孤を描く赤い唇。発光するような金の髪。血管の透けそうな白い肌。 幽鬼のように、闇夜に浮かび上がるその姿は、異質そのものだった。きっと今、彼はヴァンパイアだと言われても、信じただろう。
「面白い」
唾を飲み込もうとして、口の中が渇いているのに気付く。視線だけ。視線を向けられただけなのに、私の足は凍り付いてしまった。 階段は直ぐそこだっていうのに! 202号室と201号室の間。外側に小さく張り出た踊り場が、無性に遠い。 下手に動けば何をされるか判らない。こいつは訳の判らない力を使う。………多分、使う。 たった数歩の距離は、気休めにもならないのだと、私を射抜く瞳に思い知らされる。私の眼は男に釘付けにされて、指一本も動かせない。 男はゆっくりと首を傾げ、私を縛っていた栗色の双眼が、ふと私の背後へ逸れた。それでも私は彼から眼を離せない。
「気に入ったわ」
何が。何を。 言われた言葉の意味を理解出来ないうち、突然にゅっと目の前に逞しい腕が生えた。 その腕が私を引き寄せると、鉄の匂いが鼻を掠める。温もりが背中に広がって、包むように回された手が力強く肩を抱いた。
「これに手を出すな」 「あ、っ――、」
肌を粟立たせる重低音。 あの日も、碧に怒りを燃やしたあの日の彼も、こんなふうに低い声を出した。 なんだか遠い昔の出来事みたいに感じるけれど、僅かに痛むあばらが伝えている。あれから二週間も経っていないのだ。 だがあの時とは感じるものが違う。じんわりと手足に血が巡るように、張り詰めていた緊張が解れて行く。同じ声でも、聞いている側の精神状態によってこうも違うとは。 金髪男に集中しきっていた意識は、いつの間にか背中の存在に傾いていた。
「あらあら……」
呆れたような声に、漸く事態を思い出す。視界に入ったプラスチックのフォークは、その先を金髪男に向けていた。私の肩を抱く手に力がこもる。金髪男は下らない物を見るようにそれを一瞥し、鼻を鳴ら、プラスチックのフォーク? 慌てて視線を戻す。白く、つるりとした光沢のプラスチックフォーク。コンビニとかでくれるやつ。全く状況にそぐわない代物が今私の視界を占めているんですが。
「何処に隠し持ってたんだか、漸く本気ってわけ?」
何が? 私とは裏腹に、金髪がどう考えても可笑しい反応を示す。いやいや本気って何が? プラスチック製のフォークで何かできると思っているのかこの二人。
「でもねえ……」
すっかり動揺した私を、男が目を細め見る。瞬間、圧倒的圧力が、背後から上がった。 愕然とする。 目の前の男が放っていたのと同じ、或いはそれ以上の圧迫感が、今度は背中から放たれているのだ。此処は魔界か。知らない内に魔界に来ちゃったのか。 自分の存在が、あまりに軽く思える。獅子の檻に入った子兎は、きっとこんな絶望を味わうんだろう。 しかし対峙する私の間にあるのはプラスチックフォーク。この緊迫感の中、構えられているのはプラスチックフォーク。獅子のごとき威圧感も、これが台無しにしている。
「あたし、もうやる気は削がれちゃったのよね」
金髪は平然としている。それはそうだろう。だって、しつこいようだが突き付けられているのはプラスチックフォークなのだ。私でも簡単に折れる。
「名前は?」 「教える必要はない」
間髪入れず答えたのはフェルさん。私は問われた事自体、気付くのに数秒を要した。動揺が酷い。 あ、私か。と気付いた時には、金髪は面白そうに咽喉を鳴らし笑っていた。目線は相変わらず私に定まっている。あの、後ろの圧力凄いんで、見ないでもらえますか……!
「――ミホ」 心臓が飛び上がった。
「だったかしら?」
後ろから上がった舌打ちを、頭の片隅で聞いた。 なんだこれ、名前を呼ばれただけなのに、なんでこんなに不安なんだ。正体不明の焦りと不安で目が泳ぐ。なんか知らないけど凄く怖い。何が怖いか判らなくて怖い。
「……去れ、白の。彼女は貴様の望むような者ではない」 「あら、あたしの望みをご存知だなんて知らなかったわあ」
金髪はおもむろに人差し指を唇へあて、妖艶に微笑む。
「だったらお判りよねえ。あたしが求めるもの。それ、いいじゃない?」
ぞくぞくぞく、と足から頭の後ろまで、よく判らない悪寒が走った。なに! 嫌な予感しかしないんですが!
「それとももう貴方のものなのかしら。だったら諦めるけど。人のものには興味ないし」 「………………」
漸く金髪の視線が逸れた。フェルさんを見たと思われる彼は、やはり楽しそうに咽喉を鳴らした。
「貴方って素直なのねえ」 「彼女は本当に無関係だ。我らの事情に巻き込むな」
無関係―― すうと頭が冷えていく。ガチガチだった肩が、息を吐く度に下がっていく。 力が、抜ける。
「無関係なのは見てりゃ判るわよ。正直あたしの知らない魔法かと思って期待はしたけどね」 「彼女は魔法は使えぬ」 「だから見てりゃ判るって」
淡々と交わされる会話は、何処か遠い。突然去来した淋しさが胸を満たして、外界を謝絶しようとしている。 フェルさんがそんな風に思っていたなんて。巻き込まれたなんて、いや、思ってなくもないんだけど、それはフェルさんも一緒なのだから、彼が巻き込んだなんていうのは間違っている。 彼と私――きっと目の前の金髪も、何かに巻き込まれたのだ。それは誰の所為でもないし、誰かの所為にするつもりもない。 けど、真面目なフェルさんの事だから、一方的に世話になるのが許せなかったのかもしれない。 私はそう思ってなくても、伝わらなければ意味が無い。ショックだった。今こんなに淋しいのは、運命共同体だと勝手に勘違いしていたからだ。 私の心地が悪くなかったからといって、彼の心地が良いとは限らないのに。 独り善がりとはこの事。 無関係、その言葉が刺のように刺さって消えない。
「ではもう良いだろう。さっさと去ね」 「なによ、無関係だったら興味も持っちゃいけないわけ? 意味判んないわね。関係って作るもんじゃなかったかしら?」 「っ、屁理屈を」 「あーもー面倒ね。判ったわよ」
すっかり脱力したらしい金髪は、虫を払うように手を一振りし、身体の向きを変えた。そっちはドア。私の部屋。 はっとして焦点の合わさった私を、金髪は流し見る。怯んだ。
「中で待ってる」
なに、この色気。 抜群の破壊力を持った流し目と共に、金髪はドアの先に消えた。
「………………」 「………………」 「あっ、おい!」
はっ! 思わず呆然としてしまった――フェルさんも同じだったようだ――が、だが一足先に我に返ったフェルさんの声で、私も漸く慌てる。 中に入って行っちゃったよ!?
「何を考えているんだあいつは……」 「さあ」 「さあって……」
いつの間にか失せた圧力と、何時もの声色に戻ったフェルさんに返すと、呆れたように言って、黙り込んだ。 かと思えば急に身体を反転させられた。
「わっ!」 「ミホ!」
何だなんだ!? がっしり掴まれた両肩が、ちょっと痛い。見上げれば、焦ったような、怒ったような、フェルさんの顔。
「怪我は無いか!? 頭は、腕は、足は、何処も無事か!?」
お、おう……怒涛のように訊かれて、取り敢えずコクコクと頷く。 すると、ちょっと表情が和らいだ。 私までほっとして頬を緩めると、フェルさんは驚いたような顔をした。それから気まずそうに横を向いた後、ゆるゆると私の肩を解放する。
「ミホは此処に居ろ」 「えっ、でも」 「あれは危険だ。私一人で話を付ける」
有無を言わせないフェルさんに、不満から唇を尖らせる。
「でも……まともに話が出来るとは思えませんが」
おずおずと反対意見を述べれば、フェルさんは振り向き、何言ってんだと眼で訴える。 様子から見るに、どうやら顔見知りみたいだけど、友好関係とは言い難い。悪いんだけど、平和的に話し合えるとは思えないんだよね。これ以上騒がれたりしたら家を追い出されかねない。
「大丈夫ですよ、多分」
なんの根拠も無しに言えば、眉をしかめられた。ついでに首も横に振られた。
「駄目だ」
むう。 頑なな態度に思わず呻く。
「私だって訊きたいことあります」 「駄目だ」 「でも、怖がってたら判ることも判らないじゃないですか。大丈夫です。フェルさんが居るし」
ここ最近で学んだ事を付け加えたら、フェルさんは何故か絶句した。
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