アウトブレイクシザー

 涼しげな目許。綺麗な顎のライン。ほんの少し眉を下げて微笑う。真面目で、禁欲的で、鍛練ばか。スーパーが好きで、箸が苦手で、ルダスを愛している。
 私は、彼の何を知っているんだろう。何を知った気でいたんだろう。

 彼におぶわれたのを覚えている。いつ眠ったのかは覚えていない。いつ家に着いたかも。
 目が醒めると、朝だった。何時か確認しようとし、腹部横に走った痛みに悲鳴を上げた。

「うう、痛い……」

 眉を寄せたまま呻くと、不意に違和感が頭を擡げた。あれ?

「フェル、さん?」

 部屋には居らず、閉まった引き戸の向こう側にも、人の気配が無い。

「フェルさーん?」

 少し声を張ってみるも、返ってきたのは静寂。急に不安になって身を起こそうとし、痛みに息を詰める。
 学習しろよ馬鹿か……!
 自分の迂闊さを呪いながら、今度は慎重に起き上がる。
 うーん、捻ったり曲げたりすると痛いな。でもなるべく患部を動かさないようにすれば、行動不能な範囲じゃあない。
 ぎこちなくベッドを出て、ゆっくりと移動する。摺り足だと身体に響かなくていいな。
 引き戸を開けて顔を覗かせるも、やはり人の姿は無かった。

「フェルさん」

 何処?
 言い知れない緊張が胸に広がっていく。
 トイレの扉をノックする。居ない。
 お風呂を覗く。居ない。
 狭い我が家はこれで全てだった。

「なんで……?」

 居ないの。
 まさか――

「帰っ、た?」

 来た時は唐突だった。なら帰りが唐突であっても不思議ではない。寧ろ同じくして消える方が自然な気がした。
 茫然とした。そう、こんな別れだってあるのだ。予測して当然の事に、私は今更気が付いたのだ。

「嘘……」

 へなりと身体が弛緩する。脇腹が抉るような痛みを訴えた。

「っ、た」

 そのまま蹲り、床に額を付く。目の奥が熱い。
 いや、早まるな私。もしかしたら出掛けているだけかもしれないじゃないか。そうだよ。朝の散歩とか、最近私が許可した朝の走り込みとか。でも、私に黙って?
 フェルさんがそんな事するだろうか。私の昨夜の状態を知っていて、フェルさんが呑気にジョギングなんてするか? いいやしない。あの人なら、私の隣で夜通し正座待機してそうだ。だから私は、目覚めて彼が居なかった事を変に感じたんじゃないか。
 じゃあ、やっぱり。
 違う、嫌だ、考えたくない。
 額で強く床を圧迫する。痛みで浮かんだ生理的涙を、他の何かが溢そうとした。
 唇を噛んで耐える。零すな。違う。考えたくない。何も考えたくない。何も――

 カチャリと、鍵が回った。
 ガチャリと、ドアが開いた。
 ミホ、と誰かが叫んだ。

 ん?

「どっ、どうした!?」
 うん?
「痛むのか!?」
 ううん?

 反射的にやった視線の先で、フェルさんが焦っている。フェルさんが、焦っている。フェルさんが。

「起き上がれるか? 今痛み止めを、」
「フェルさんが」
「え? 私がどうかしたか?」
「居る」
「? ああ、居るが……あ、今薬を買いに出ていたんだ。すまない。ミホには休息が必要だと思い、黙って出て行った」
「………………そう」

 がくりと項垂れる。なんだこの疲労感。
 私がグッタリしたのを見て、フェルさんがあわあわしていたが、構わず貝になる事にした。なんか何処か、物凄く遠くへ行きたい。地平線の彼方とかに行きたい。そして今しがたの私を気泡に帰したい。忘れよう。それがいい。

「ん、待って、痛み止め?」

 私、貝からの脱却。気を取り直した私に、フェルさんはまだ心配そうな顔を向ける。

「ああ、薬屋にあると訊いて。薬屋を見付けるのに手間取ったが、無事こうして手に入れた。飲むといい。治療院もあるらしいな。びょういん、と言ったか。飲んでからそこに行こう」
「……いや、ちょっと待って下さい」

 その知識は、私が与えたものではない。それは判る。テレビとも考えられない。何故なら、彼は訊いたと言った。テレビは疑問に答えない。
 僅かに首を傾げたフェルさんは、瞳に不安を滲ませている。何かマズい事をしたかという、不安顔。
 対して私も、不安そうな顔をしていたに違いない。だって、訊いたって、誰に? 答え次第では大変困る事になるのでは。
 ごくりと唾を飲み込んで、口を開こうとし、何故かはっと目を見開いたフェルさんの顔にビビり、開きかけたまま止まる。そして。

「すまなかった」

 華麗な土下座を目の当たりにした。

「……え?」
「謝って許される事では無いと、判っている。この身をどうとして貰って構わない」

 土下座。どげざ。DOGEZA。
 誰が考えたか、ジャパニーズ最大の謝罪である。フェルさんの土下座は完璧だった。

「なん、え、フェルさん、何して」
「この国では、これが最上級の謝罪と訊いた。だからといって、許して欲しい等とは思っていない。出て行けと言うのなら、出て行く」

 だから誰に訊いたの!
 とっ散らかりそうな頭を必死で整える。とにかく、フェルさんは責任を感じているらしい。でも土下座されても困る。てかフェルさんにこんな余計なもん教えるなんて本当に誰の仕業だよ! ああ、じゃなくて、先ずは、そう先ずはこの絶賛土下座中の彼を落ち着かせなければ。

「フェ、フェルさん、大丈夫です。私別に怒ってないし、フェルさんを責めるつもりもありません。大丈夫です。だから止めてください」
「……いや、私は貴女に酷い事をした。それは安易に許される事では無い」

 ああ、真面目さが裏目に……。いいんだと諭すも、フェルさんは頭を上げない。困った。

「うん、じゃあ、あの、とにかく、フェルさんの気持ちは判りましたので、話をしたいんですが、そのままだと話しずらいので、止めて貰えますか」
「む、承知した」

 私頑張った。彼は実直故に、己が認められるまで、他人の意見に左右されず、真っ直ぐ自分を貫き通す節がある。つまり今である。
 それを緩和させるのはかなり骨が折れる作業で、一旦保留し、じわじわと時間をかけて納得させるのが良いと、一緒に過ごすうちに判った。だから謝罪は保留させ、話題を逸らす。つまり今である。

「フェルさん、その謝罪の仕方もそうですけど、薬の事とか、一体誰に訊いたんです?」
「それは――」

 言い掛けて、フェルさんはダイニングテーブルを見上げた。私も目を転じれば、テーブルの上で、携帯がぶるぶると震えている。あ、着信。
 立ち上がろうとし、私のしかめっ面を見たフェルさんに、手で制された。彼の手から携帯を手渡される。

「ありがとうござ……」

 正に驚愕だった。画面に映された、溝呂木先輩の文字。その右上で控えめに主張する現時刻を見た瞬間、私は硬直した。
 十時。遅刻どころの騒ぎじゃない。うちの会社の始業時間て何時だっけー。八時? まさかー。

「ミホ? 出ないのか?」

 携帯を持ったまま石と化した私を、訝し気に見ているフェルさん。出るか出ないかで言ったら、出る。出なくてはならない。ああ、本当に地平線の彼方に行きたい。

「……はい」
『お、やっと本人かー。大丈夫か花流ー? 怪我したって?』
「……はい?」
『いやあ、まさかうちの奥さんの言う通りたあなー。あ、それは課長にゃ言ってねえから安心しろ』
「先輩?」
『おう。なんだまだ寝呆けてんのかお前。今朝お前居なくて俺一人で昨日の最終確認したんだからなー?』
「それは……すみません。あの、」
『うん、ま、何とか片付いたから心配すんな。で、怪我の具合はどうなんだ?』
「いや先輩、なんで、怪我したって、なんで知ってるんですか?」
『え? だって、彼氏がそう言ってたぜ?』

 絶句した。
 口を半開きのまま、隣のフェルさんを見上げる。瞬きして返された。おい? どうなってる?

『なんだよ、違うのか? あ、彼氏じゃねえの? なんだよー。兄弟かなんか?』
「話したんですか?」
『うん。あれ、聞いてねえの? 何度電話しても出ねえから、何事かと思ったんだけどよ、四回目? 五回目かな。その辺りで男が出てよー。いやびっくりしたわー』
「へえ」

 私の目が鋭さを帯びたのを感じ、フェルさんの顔が強張った。

「んで、怪我したって聞いてまたびっくりしてりゃあよ、どうしたらいいか訊いてくるんだもんよ。お前って弟居たっけ? 病院が何処だか知らねえって言うし、花流は寝てるってんで、取り敢えず痛み止めでも飲ませておけって言ったんだけどよ』
「なるほど」

 漸く犯人が判った。
 私がどんどん剣呑な空気を醸し出しているからか、フェルさんの緊張は増したようだ。膝上で握られた拳が、きゅっと縮まった。

「それで? それ以外にも何か話しました? 話しましたよねえ?」
『え……ああ。話したけど。あれ、なんか、怒ってねえ? 花流』
「いいええ。別に。やむを得ない事情で負傷しまして、先輩には大変ご迷惑おかけしました。病院はまだなので、診断結果が出たら課長に私から連絡差し上げるとお伝えください」
『お、おう』

 歯切れの悪くなった先輩は、空気の読める大人である。

「それと先輩」
『うん』
「謝罪の仕方って色々あると思いませんか?」
『うん。うん?』
「悪気が無ければ何をしてもいいって、誰が言ったんでしょうねえ」
『……まず、かった?』
「万里さんにメールしときます」
『えっ、それはまっ』

 通話終了。その文字を確認し、再び隣を見上げる。びくりと肩が揺れた。ほう、私はそれほど凶悪な顔をしていたと。

「ミ、ミホ。何か私は」
「大丈夫、フェルさんは悪くないです。でも、電話に出る前に、起こして欲しかったなー、なんて」
「う、す、すまない」

 狼狽える青年はちょっと可愛いが、彼は責任感が強いから、言い過ぎは良くない。先輩は逆に言い過ぎないと判らない。
 私が苦笑すると、びくついていたフェルさんが、僅かに肩の力を抜いた。しかし直ぐに顔をキリッとさせたかと思うと、折り目正しく頭を下げる。しまった。振り出しに戻った。

「フェルさん、もういいですから」
「いいや良くない」
「うん、はい。じゃあ私は薬を飲みたいので、水をください」
「承知した!」

 指令を言い渡すと、嬉々としてグラスを取りに行った。本当は何か食べた方がいいんだろうけど、フェルさんに用意できるか疑問だ。料理は本当にできないんだよあの人。心に乙女を飼っている癖に。
 薬を飲む為、緩慢な動作で立ち上がると、自身を見下ろした。

「着替えは……いいか」

 私の乙女は何処に行ったのか。昨日の格好のままだが、着替えるのに痛い思いをするのは必須。目に見えている。やだ。痛いのはもう嫌だ。
 フェルさんが用意してくれた水を薬と共に飲み下した時、軽く咳が出ただけで激痛が走ったのが駄目押しとなり、結局皺だらけのシャツのまま、病院へ行く事した。
 花流美穂、今一番恐いものは、咳です。


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