サイドインターフェア
こんな時に限って自転車の鍵が中々出てこない。 もおっ、どこ行ったの! あ、あった! 数台しか無い自転車達の間を駆け抜け、フェンスの出入口を抜けて直ぐ様跨る。その時だった。
「ねえねえ」
反射的に顔を向け、バネの如く戻した。今視界に見てはいけないものが。
「ねえって」
私じゃない。私以外にサラリーマンのおっさんだけだったとしても、きっと私に話し掛けたんじゃない。 という顔をして過ぎ去ろうとした。のに、前を塞がれた。自転車に掛けた足が踏み留まる。うっ、困った!
「おねーさん」 「え? あ、私ですか?」
しらばっくれてみたものの、さてどうしよう。いかにも遊んでますって感じの男は、笑顔を浮かべている。おー、チャラ男の見本みたいな奴だな。
「そうだよー。他に居ないっしょ」
いやほら、リーマンのおっさんが、っておっさん足はやっ! 物凄い早さで去っていったよ! 関わりたくないのは判る。私も関わりたくなかったよ……。
「今から帰るの?」 「いやあの、ちょっと用事あって」 「今から?」 「え、はい」 「何の?」 「え、と、い、犬が」 「犬飼ってんの? もしか一人暮らしー?」
あわわ、なんかやばい。意図しない方向へ行っている。 実は私、この手の状況は初めてである。友人や同僚と居てナンパされた事はあるが、人任せにしてきた。いざ己がという立場になって、悲しいくらいどうしたらいいか判らない。 私の下手な嘘を見抜いたのだろう、男は遊びに行こう等と言いだす。いや確かに私、びっくりする程嘘下手だったけどさ、拒否の意思表示にはなったでしょうよ。そこは尊重しようよ。
「いや、本当に時間なくて」 「ええー」
ええーじゃないよ。私は帰らないとならないんですよ。でもスキルが、圧倒的にスキルが足らない……! そんな私が、ナンパキャリアのありそうなチャラ男をあしらえる筈もなく。 何とか隙間から抜け出そうとするも、チャラ男はナイスディフェンスを披露。くっ、こいつ、隙がない……!
「あの、ほんと、待ってるから帰らないと」 「じゃあ一緒に行くよ。俺こう見えて犬好きなんだよー?」
えええなんでそうなるの!? こう見えて犬好きとか意味判らんけど、着いてくる意味はもっと判らん!
「ひ、人見知りするんで」
私も何言ってんのお!?
「家どこー? 遠いの? 車乗っけてってあげようか」 「け、結構です」
ひいい、更にスリーディフェンスに! 両サイド塞がれた! 最早勝てる気がしないが、気掛かりがある私は、何としても早く家に帰らねば。がん、ばれ、私……!
「お前らはいーからあっち行ってろよ」 「いやだってお前、さっきから怖がられてんじゃん」 「はあ、怖がられてねーし」
ねえ、とか訊かれても、どいつもこいつも怖いです最初から。うひゃひゃとか笑ってるの貴方達だけだから私ずっと顔引きつってるから!
「いーから散れ。ね、此処あいつらウルセーから、あっち行こうよ」
がしり、と掴まれた左手首。随分ごつい指輪なさってるんですね……!
「い、やいやいやいやいや」
行かねえっつの! いや行くけどそれは私1人であって、お前さんとではない!
「ほら嫌だってー」 「うっせ死ね!」
掴まれた手が怖い。引いて抵抗しているけど、依然離れず。どうしよう本気で怖い。 暑さで掻く汗とは違う汗が涌く。泣きそうかもしれない。だって何だか息苦しい。
「……何をしている」
だから――だから、居る筈のない人に、こんな状況じゃなきゃきっと叱らなければならない人に、酷くほっとしたんだと思う。
駐輪場は、ガード下にあたる。安っぽい蛍光灯の白は、頼りなく、寧ろ闇を際立たせた。 真上を走る電車の音は、決して落ち着くものではない。電車が通過する度に、金網のフェンスがビリビリ震えた。
――フェル、さん。 何故。 何故彼が此処に。 振り返った男の肩越しに居る筈の無い彼が見え、唖然とした。
「あ? 何あんた」
駆け寄りたい衝動は、目の前の男に妨害された。邪魔でしかないなこいつ本当に! ここは知り合いと伝えて、早々にお引き取り願おう。
「あの、か」 「何をしている」
私を遮った声は低く、冷たく、一瞬でその場を支配した。誰も彼から目を離せない。空気が重さを持ち、全身に降り掛かる。謎の圧力に、足が震えた。 なに、これ。こんなの知らない。
「う、うるせえ!」
意味も無い大声に、びくりと身体が反応する。虚勢と思われるが、男が圧倒的な存在感を放つフェルさんに言い返した事により、固まっていた周りも動き出した。ついでに私も金縛り状態から解けた。そこで一番最初に思ったのは、いやフェルさんは別に煩くは無いよねという、現実逃避気味の感想だった。 いや違うだろう私。何故どうでもいいツッコミを今するんだ私。
「関係ねえだろっ」 「手を――」
決して大きくない声。なのに聞き漏らさないのは、彼の動向が逐一気になっているからか。はっとして、未だ掴まれた手を見る。次いで顔を上げた時、目の前に居た筈の男は居なかった。 代わりに居たのは、フェルさん。刮目する私の傍で、呻き声が聞こえ、見れば男が屈んでいた。私の手が解放されている。え?
「……え?」 「てめえ!」 「わあっ!?」
事態を把握できない内に、視界の端から別の男が踊り出る。だが、男は綺麗に宙を舞った。眼前で放物線を描き、地面に叩きつけられる。痛みに叫んだものの、空を仰ぎ面食らったようにパチパチ瞬く男と同じように、私も瞬く。何が起こったのか判らない。
ええと、人が? 宙を舞って? 宙を……人って宙を舞うものだっけ?
処理速度の追い付かない私の手首を、そっと何かが撫でた。それに簡単に肩を跳ねさせた私を、フェルさんが見下ろしている。
「怪我はないか」
こくり、と頷く。 拙い返答に、それでも満足そうにフェルさんは目を細めた。それから背に手を回した彼に押されて、押されるがまま、自転車を手放した。彼の背後に移動し、ガシャンという音がして初めて、自転車の存在を思い出した。それくらい、衝撃的出来事だったのだ。
「あ、あの、」 「話は後だ」 「ってえなこのやろう!」
スパリと拒絶された上、直後に乱暴な言葉が飛んできて、結局二の句も告げない。身体を強張らせ、緊張に息を詰めた。 私からはフェルさんの背中しか見えない。彼がフッと短く息を吐いたかと思うと、ぐあだか何だかの悲鳴が上がる。どさり、何かが落ちる音。誰かの咆哮。次いで唐突に視界が開けた。 フェルさんの背中が消えた。いや消えた訳ではない。消えたように見えた背中は、何故か私の右前方にあった。フェンスと反対側。僅かに屈んだ体勢から、恐らく私と同じく目で追えなかった大柄な男の脇腹辺りを手で突いた。殴ったのではなく、掌で突いた。 右から左へ、私の両眼が男を追う。バシャンと金網のフェンスが鳴いた。吹っ飛んだ。人が、吹っ飛んだ。 愕然としたのは私だけでは無い。倒れたまま悶絶する男、最初に私に絡んできた男以外、絶句して立ち尽くした。数えちゃいないから正確ではないが、少なくとも7〜8人は居た筈だ。その誰もが吹っ飛ばされた男を呆然と見ていた。 恰幅の良い男だった。背も大きな方だろう。体重だけならフェルさんの倍はありそうだった。なのに、3メートルは吹っ飛んだのだ。訳が判らない。あの場所だけ無重力だったかのように、巨体が軽々と飛んで行った。
「う、あ」
フェルさんの最も近くにいた一人が、とすん、と尻餅を付いた。あまりに軽く腰を落ち着かせたので何かと思ったが、腰を抜かしたらしい。 少し離れた位置に居た何人かが、狼狽しながら目配せし合っている。このまま傍観か参戦するか、迷っているようだった。 フェルさんはフェンスに叩きつけられた男を見ている。その横顔に、掛ける言葉が出ない。何故こんな事に。 私は彼の姿を見て、確かに安堵した。けれどそれは何も、こんな事を期待したからではない。こんな事を望んではいない。
「くそっが」
呻くように吐かれた声は、大柄な男のもの。金属音と共に、それは男の手に握られた。蛍光灯を白く反射する、小さな刃。瞬時に私を凍り付かせる、凶悪な存在。 バカな、なんて事を―― 言葉が脳内を駆けたのと、男が走りだしたのは同時だった。野太い叫び声が、真っ直ぐに向かう銀色が、やけにゆっくりと移動していく。 咄嗟に目を閉じた。見えなくなったからといって、何も変わりはしないが、これから起ころうとする惨事を、堂々直視できるだけの丈夫な精神なんか、持ち合わせちゃいない。 縮み上がった咽喉は震える事を忘れてしまったようで、脳内だけで、やめてと叫んだ。
そして、固く閉じた瞼を開けたのは、どごんという重い音が響いた事への驚きからだった。 思わず開けてしまった私の両眼に、車にへばりつく男の姿が飛び込んでくる。 車道に止められた黒い車。フェルさんの腕が、男の首の後ろを腕で圧迫し、手首を後ろ手に捻り押さえ、動きを封じていた。
「くっ、くそ! うあ!」
男が藻掻いているようだが、全くどうにもなっていない。一際痛そうに顔を歪めると、呆気なくナイフは地面に転がった。
「ううう! おまっ、お前らあ! 何ぼさっとしてんだ! さっさとこいつを何とかしろ!」
唾を撒き散らし、男が叫ぶ。自力でどうにもならないなら、他力で何とかしようと思ったらしい。 男の叱責に、結局棒立ち同然だった男達は、はっと顔を引き締めた。突然現れたフェルさんに場を乱され、思考を停止していた男達が、一斉に動き出したのだ。 恐らく、一番強く、リーダー的な存在が、この大柄な男なのだろう。単純に考えて、一人対複数。数で勝るうちは、当然彼にとって劣勢。そう思ったのは私だけではなく、相手の男達もそうだったろう。 けれど結果は――
立っているのは、フェルさん一人だった。呻き、丸まり、身体を横たえる若者達の真ん中で、酷く冷静な顔のフェルさん一人だった。
力の差は歴然で、数の有利など欠片も無かった。圧倒的な力の前では、数など露ほどに関係無いのだという事を、私は実感してしまった。 自業自得と言えばそれまで。でも私は、日頃こんな暴力に晒された事など無いし、正直足が竦んでしまっていた。判っている。フェルさんは私が困っていると思って、だから、でも、 何かモヤモヤしたものを抱えながら、それでも終わったのだと、自力に言い聞かせる。終わった。そう、終わったのだ。 一度目を瞑り、すうと息を吸い込む。大丈夫。動揺してない。大丈夫。フェルさんはフェルさん。 そして再び目を開いた時、私は驚きに息を詰まらせた。 うつ伏せる相手を踏みつけて、本来曲がる筈ではない方向に腕を曲げる。悲鳴が上がるのも気にせず、容赦の無い力加減で、どう見ても腕を折る気満々で。 何を、しているんだこの人は。 そう思ったところで、役立たずだった私の声帯は、久しぶりに振動した。
「だめえ!」
声が出れば、足が動いた。歩道に縫い付けられていた足が剥がれ、身体を前へ傾かせる。 そうして飛び付いた矢先。
「っあ!」
私の身体は投げ飛ばされた。全身が総毛立ち、瞬時に脳が危険を察知する。だが危険だと思うだけだ。避ける事など私にできる訳がない。私にできるのは、次に来るであろう痛みに身体を緊張させる事ぐらいだ。 そして、運悪く。 私が飛ばされた先には、私の自転車があった。
「あぐ!」
い、いたああああ!! ガシャ、と思ったより控え目で鈍い音が鳴ったが、衝突の痛みは全く控えてなんかなくて、脇腹、細かく言えばあばら部分が激痛を訴えた、なんてもんじゃない、叫んだ。私のあばらが渾身の叫びを上げている……!
「〜〜〜〜〜〜、〜〜〜〜!」
痛い! 言葉にできないくらい痛い! なんか周りの音も遠い、って言うか周りにまで気が回らない。食い縛った歯の間から呻きが漏れる。何度も呼吸を止めて痛みを逃がそうとする。でもなんかいつまで経っても痛いんですけど!?
「くっ………、ぅ、」 「ミホ!」
悶絶していた私は、肩を叩かれて、漸く隣の彼に気が付いた。
「ふ、あ?」 「ミホ、顔を上げろ、おいっ、こっちを見ろ!」 「む、り……」
痛みに耐え蹲ったまま答えれば、彼は少し間を置いて、私の両脇に手を差し入れた。……うん? 手を?
「いああ!? いっ、ちょ、いっ〜〜〜!!」
無理矢理起こされて、下敷きにしていた自転車の上から退かされる。あばらが! あばらが洒落にならない痛みを! 道路に下ろされた途端、這いつくばるように崩れる。
「はーっ、はーっ!」 「ミホ、痛かったら言え」 「は、う、え?」
脂汗を浮かべる私が見えているのかいないのか、フェルさんは私のお腹を触る。恐らく大した力では無いのだろうが、ある辺りを触られた瞬間、電撃が走ったかのような痛みが私を貫いた。そうだよあばらだよ!!
「……折れてはいないか」 「〜〜〜〜〜〜!」
ぐあああああ! しぬ!
「暫し待て」
あ――
「……ふぇ、ふぇる、さん」
踵を返そうとした彼を止める。掴んだのは服の裾だった。 青い、蒼い、あお。見上げて。
「かえ、り、ましょ」 「っ、」
彼の顔は、私よりずっとずっと、痛そうに見えた。
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