ライリレイションズ

 それから、カルチャーショックもままあるが、穏やかな日々が続いた。
 十日も経てば、フェルさんも生活に慣れつつあり、私も仕事に集中できるようになった。
 だからと言って。

「うう、先輩の鬼。悪魔」
「黙ってやれ」
「だってなんですか明日までってなんですかこの量ー!」

 現在、私の前には山のように積まれた化粧品サンプルと、書類の束が幅を効かせている。

 私の勤める会社は化粧品会社で、私は事務処理担当なのだが、納品用サンプルと、納品書の相違確認等も行う。だがこの量は異常だ。普通なら残業込みでも三日はかかる。
 そんな膨大な量の仕事を持ってきたのは、私に付いて色々教えてくれた先輩である。今朝、納期を間違えてたーてへっ、と可愛くも何ともない台詞を吐いた先輩を、本気で目潰ししてやろうかと思った。

「大体なんで私の担当部分だけ忘れちゃうんですか。嫌がらせですか。イジメですか」
「俺だって悪いと思ってるって。だからこうして残業してまで手伝ってやってんだろー?」
「何故上から……」

 もうすぐ三十路の|溝呂木《みぞろぎ》先輩は、作業しながらも、ふんと胸を張った。

「先輩様だから」

 もう一度言う。この苦行は、先輩が納期を間違えたからである。

「いいからさっさと手え動かせ」
「へえい」
「おま、俺を先輩だと思ってねえだろ」
「いえいえそんな事ございませんよ。よしこっちはオッケー。あ、この貸しは明日のランチでいいですよ」
「お前のが鬼じゃねえか」

 給料日前なのに……と情けない声で呟く溝呂木先輩は、実はかなり優秀な人だ。
 溝呂木先輩は、普段こんなミスはしない。私がしたミスをフォローする事はあっても、フォローされた事は今まで一度もない。
 その理由は別の先輩から聞いた。私が本気で怒れないのも、この理由があるからだ。

 此処最近、私の様子がおかしかったから、定時で帰れるよう彼が仕事を負担していたんだと、そう聞いた。つまり単純に、彼の仕事は倍近くなるという事だ。
 いくら仕事の出来る先輩でも、追い付かなかったのだろうと容易に連想できる。

 そして悲劇は起きた。
 でも、これを聞いて怒れる筈ない。元を正せば、自分のまいた種だ。私の皺寄せ先である先輩は、被害者とも言える。

「後少しだし、先輩お先どうぞー」

 だからこそ、そう言った。
 だが先輩は、私の言葉にも顔をあげず、しれっと言い返す。

「何言ってんだ。後少しだから、二人でちゃちゃっと終わらせんだろ」

 何でも無い事のように言うから苦笑してしまう。
 チラリと時計を見上げると、もうすぐ22時になろうとしている。終わりが見えているとは言え、確かに私一人なら、終電にも間に合わないだろう。
 ラグビーをやっていたというガタイの良い、四角い顔の先輩は、一見ぶっきらぼうに見えがちだけれど、とても面倒見がいい。実は人懐っこくて、優しいと、彼を知る誰もが口にする。

「えー、でも深夜のオフィスに二人きりですよ? 襲われたら困るじゃないですか」
「やめろ鳥肌が立った」
「失礼極まりないです先輩」
「どっちが失礼かよく考えてみるんだ新人」
「先輩です」
「よし頭を出せ」
「嫌です」

 手を止めずに軽快な取りが出来るのは、これが日常茶飯事だからだ。仕事にいっぱいいっぱいな最初こそ、おざなりな相槌しか打てなかったが、今ではこの通り、テキトーかつ、くだらない応酬を交わせるようになった。
 先輩が話しながら作業する人だから自然に身に付いたんだけど、これ役に立ちそうにないスキルだよね。実際役に立った事ないし。
 それから一時間ほどして、最終チェックは明日の朝に回し、作業は終わりを迎えた。
 会社を後にし、二人並んで駅まで歩く。

「こんなに遅くなって、奥さんに悪いです」
「俺に悪いとは思わないのか」

 溝呂木先輩は新婚さんだ。奥さんは、|万里《まり》さんと言って、スレンダー美人で、私と面識もある。結婚式の二次会で初めて会って、何故か私をいたく気に入ってくれたようで、何度かおうちにもお邪魔させてもらった。新婚の家にお呼ばれなど、何の罰。リア充爆発しろ。

「先輩にはどっちかって言うと、感謝ですかね。ありがとうございました」
「おーそうだ、感謝しろ感謝しろ」

 まあ間違えたのは先輩なんだけどね。元は私の仕事でもミスったのは先輩なんだけどね。
 互いの間に小さな笑いが起きる。それが治まると、不意に先輩は声を落とした。

「もう、大丈夫なのか」

 本当にこの人は、もう。
 苦笑を浮かべながら、頷く。面倒見の良い先輩を、思ったより心配させていたようだ。

「色々とご心配おかけしました」
「ん。あー、腹減ったなー」

 駅が見えてきた。フェルさんの顔が過る。
 一応、今朝の時点で連絡はしてある。フェルさんには家の電話には出ないよう言ってあるので、家の電話に留守電を残した。何かあれば私の携帯に掛けるようきも言ってあるから――電話の掛け方も練習済み――、大丈夫だと思うのだけど。
 流石に、いくら気安いとは言え、仕事中先輩の目の前で携帯チェックはできない。

「先輩はいいじゃないすかー。帰れば愛情ご飯が待ってるんだから」
「ふふん、羨ましいだろー?」

 リア充爆発しろ。
 夜も遅いと言っても、駅は人気があり、ホームにはアルコールの匂いが漂っていた。乗り込んだ車内もしかり。隣で吊り革に掴まる先輩は、何を思い出したのかニヤニヤしている。
 一切の妥協なく気持ち悪いな。これに何故あんな美人の嫁が……。

「万里さん元気です?」
「おう。そう言やあ、最近カリュウからメールが来ないって嘆いてたぞ」
「寂しがりやですか」
「私の可愛いミホちゃんが、一週間メールして来ない! 私に黙って彼氏でも出来たんじゃ! きーっ! 私に! 黙って! って、そりゃもう凄い剣幕で」
「何故そんなに……」

 私の何が彼女を惹き付けるのか、未だに謎だ。あと私は万里さんに、彼氏ができると報告をしないといけないらしい。知らなかった。

「あいつは俺が田舎から引っ張って来ちまったから。あんま知り合いも居ないし、カリュウが良ければ連絡してやってくれ」
「……はい」

 ここの所フェルさんにかかりきりで、万里さん含め友人関係が疎かになっていたのも事実。近々連絡しよう。
 私も実家を離れ、寂しい気持ちは良く判る。でも一番傍に居る人に、こんなに想われているのは、ちょっと羨ましい。先輩の中身がこうだから、万里さんは彼を選んだのかもしれない。
 どっちにしろ私は幸せの当て馬なんだけども。それは常に変わらないんだけれども。彼氏、か……。

「じゃあな、明日遅刻すんなよー」

 私が遠い目をしているうちに、先輩の降車駅に着いたようだった。愛する妻の待つ家へ颯爽と帰って行く先輩に、目礼して見送った。
 疲れたー。久々に心身ともにぐったりだ。眼下には赤い顔のサラリーマンが、ぐでーと身体を弛緩させて居眠りこいている。
 ふうと息を吐き出して、携帯を取り出す。
 液晶画面に書かれた、着信の文字。開いて、瞬間、心臓に冷水が差した。

 不在着信マークが付いた、自宅の電話番号。ぞっとして、慌てリコールする。
 が、耳に当てようとし、はっとする。そうだ、電車ん中だった。
 舌打ちしそうになるのを抑え、一度切ってから時刻を確認する。23時22分。
 着信は21時少し過ぎ。その後に21時40分頃。更に22時丁度。全部自宅から。
 ざわざわと、這うようにして不安が広がる。顔を上げれば、過ぎ去る景色が見えた。その進みはやたらと遅く感じた。
 先輩が降りた駅から、次の駅にもまだ着いていない。一度降りて掛けるか、否、それでは帰宅が遅れる。到着してから掛けた方が効率がいい。だが頭で理解しようと不安は消えない。ああもうっ、まだなの!?
 自宅最寄り駅まで、あと4駅もある。焦燥から指先で携帯をトントンと叩いた。
 ――何かあったら掛けてください。
 そう言ったのは私。何かあったら。何かって何。何かって何なのよ!
 きっとフェルさんは、滅多な事では掛けてこない。と言う事は、緊急である可能性が高い。緊急。つまり、緊急だと?
 血の気が引いていく。
 何か、壊したとか? いや壊しただけならいい。まさか怪我をしたとかじゃ。怪我も軽いならわざわざ電話しないかも。何しろ緊急。だとしたら大怪我なのでは。
 様々な懸念が次から次へとわいて、それはより最悪の事態へと変わっていった。
 最終的に家が火事になったところで、駅に着いた。
 扉が開き切る前に飛び出し、自宅へと電話を掛ける。耳に届くコール音。出ない。出るなと言ってあるのだから当り前ではある。
 だが私は焦っていて、自分の逞しい想像力の所為でパニックに落ち掛けていて、繰り返すコール音に怒鳴りたくなった。なんで出ないの。出て。お願いだから。
 留守電に切り替わったところで、叫ぶように彼の名前を呼ぶ。

「フェルさんっ、フェルさん!? そこに居ますか!? 私ですっ美穂です!」

 階段でスッ転びそうになりながら、問いかけ続ける。

「フェルさん! 居るなら受話器を取ってくださ、きゃっ、す、すみません!」

 改札を出たところでスーツの男性にぶつかった。慌て頭を下げる私に、相手は迷惑そうな目線を寄越して通り過ぎる。

「フェルさ、」

 再び携帯を耳に当てると、留守電が終わったのか、ツー、ツー、という音が返ってきた。ダイアルし直す。
 まだ人通りのある歓楽街とは逆に進み、自転車置き場へと向かう。何度呼んでもフェルさんは出なかった。
 ここまでくると私の想像は、全焼したアパートをバックに、警官に連行されるフェルさん、という最早どうにもならないような最強最悪な事態にまで、発展している。どうしようフェルさんが牢屋行きに!
 だから目に入ってなかった。だから気が付くのが遅れた。たまに見かける派手な若者達が、駐輪場入り口脇に屯しているのを。


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