アンノウンウォーク
ぼんやり外を眺める後ろ姿に、ちょっと出てみますかと声を掛けたのが、十五分前。 現在、時期尚早という言葉が頭を過って行った最中である。
「………………………」 「………………………」 「………………………」 「………デン、」 「いやあれはガソリン」 「!?」
車を見てから硬直したまま、五分近く経ってからの、漸くの呟き。に、待ってましたとばかりに返すと、目を剥いて見返された。 なにが何やら、といった感じの彼に苦笑して、私は頭上を指差した。
「あれが電気です。あそこを伝って各家に電気が供給されます」
口を開けたままのフェルさんは、電線を目で辿って、左右に首を巡らせた。日に透ける青を帯びた黒髪が、より青さを強調していて綺麗だ。ほけらとしていても絵になるとは、いやはや恐れ入った。
「何処から……」
それを調べるにはちょっと時間も体力もない。聞かなかった事にしよう。ごめん。
「さっきのは車です。走っている車にぶつかると軽くて怪我、大袈裟じゃなく死ぬので気を付けてくださいね」 「そっ、そんな物が往来を堂々と!?」 「堂々と……、あの、うん、普通に?」 「なんて事だ……」
怖がらせてしまったようだ。でも事故を起こされるより良いだろう。身体ごと私へ振り向いたフェルさんに合わせ、私も彼を正面に見上げる。
「脚竜(きゃくりゅう)でもそこまで危険ではないのに……クルマ、大いに警戒せねば……私に倒せるだろうか」
おい倒すってなんだ。
「ちょ、フェルさん車と何する気ですか。駄目です。駄目ですそれ。道の真ん中歩いたり、信号無視したりしなければ、滅多に事故になんて合いませんから、そんなに警戒しなくても大丈夫です。あとそんな事はあり得ないと思いますが、よしんば倒せたとしても、車は倒しちゃいけません」
なんだか納得のいかないような顔をされたが、私の方が納得いかない。倒すってなんだよ。車と戦う気ですか貴方。死ぬっつったよね私。警察沙汰だよね確実に。
「ただの乗り物ですからね。変な気起こさないでくださいね」 「む………ミホ殿がそう言うなら、倒すのは諦めよう」 「はい是非そうしてください……」
まだちょっとドキドキしている。思ったより危険思考だこの人。 自分を落ち着かせる為呼気を吐いて、ふと肩ごしに振り返れば、数メートル先に自宅が確認出来る。 凄い。全然進んでない。先ほどフェルさんが硬直している間に携帯を見たのだが、十五分、十五分以上経って自宅が目と鼻の先。凄い。
「………一度だけ試してみ、」 「駄目ですってば!」
耳に入り込んだ不吉な言葉に、慌てて再び振り向いた。むう、フェルさんが口を曲げて鳴く。そんな顔したって駄目なものは駄目だ。 私は彼に構わずに、歩き出す事にした。一応、行きますよ、と声を掛けて、彼の隣を過ぎる。
「しかしやってみない事には」 「駄目です」 「判らないではないか」 「駄目です」 「これでも腕に多少の自信は」 「だ、め、で、す」 「だが」 「駄目だっつーの!」
しつこいなおい! 後ろを付いて来る低音ボイスは、どうしても車に挑みたいらしい。いや無理だから。人間限界あるから。 あまりのしつこさに振り返り、思わず言葉が乱暴になった私を、フェルさんは驚いたような顔で見返している。 そのきょとん顔に、目だけで再度訴えた。めっ! と言うように。すると彼は顎を引き、上目遣いに私を見ながら、小さく頷いた。叱られた犬だ。叱られてしゅんとなった犬がいる。 眉が寄った。慌てて前を向く。私思ったより疲労が溜まってるのか。疲れが取れてないのか。今朝からずっと、私の目がおかしい。
「……………………」 「ミホ殿……?」 「……………………」 「お、怒ったのか?」
眼前だけを睨み付けるようにして歩く。振り向いてはいけない。あのイケメンは私の何かを惑わす。いかん。いかんぞ私。今度うっかり可愛いとか思ったら負けだ。理性的な意味で。
「………その、すまない」
振り向くな私頑張れ私い!
「……いえ、怒っては、いません」
服のついでに買ったビーチサンダルの、ペタ、ペタ、と緩やかに鳴っていた音が、一瞬止まる。 そしてペタペタッ、と若干間隔を狭めて、背に迫るのが判った。なんなんだよお前は。足音だけで喜怒哀楽を表してんじゃないよ。
「……危ないことは、駄目です」 「うむ! 承知した!」
なんなんだ、なんなんだこのイケメンは。大の男がちょくちょく可愛いって何ごとだ。可愛いであってキモくないって何ごとだ畜生。 はきはきと返ってきたとても良い返事に、ぐぐっと拳を握って、耐えた。耐えてみせた。えらい私。 波立った心を無理矢理落ち着かせれば、歩調を緩めるまでに至った。隣に並んだ色んな意味で危険人物を、そっと盗み見る。……心なしか嬉しそうだ。
「ミホ殿、あれは何であろうか」
「標識です」
「あっ、あれは?」
「標識です」
「ではあれは?」
「標識です」
目的もなく、適当にぶらつき、フェルさんが指差す物一つ一つに、答える。てかあれもこれもただの標識だよ。何で標識ばっか気になんだよ。
「では、地面に何か書いてあるのは、何の意味があるのだ?」
「………標識的な意味です」
「これは?」
「止まれ、つまり一時停止しろって事です」
「なるほど………」
「いや、うん、フェルさんは止まらなくてもいいんです」
車に対する止まれの文字の隣で、姿勢正しく棒立ちになる。真面目か。
「ミホ殿、大きな建物がある」
「ああ、学校ですよ」
「ガッコー?」
「勉強する所です」
「おお、魔術指導館か」
「何ですかその怪しい館は。違いますよ。ただの学校ですよ」
「しかし勉学に励むと言えば魔術指導館だ」
「いや何の勉学に励んでんすか。普通の学校って言えば、数学とか、文学とかで……うん、すみません、もうその魔術なんたらの解釈でいいです」
黒魔術とか教えてたらそれは最早学校ではない。想像したら怖かったので否定したが、フェルさんの頭の上にハテナが飛んでしまっているように見えて、諦めた。
「なんたらではない。魔術指導館だ」
うるせえよ。真面目か。 恐らく、魔法の学校のような物なのだろう。適当に聞き流し、足を動かし続ける。
「しかし、暑いですね……」
フェルさんに合わせていたら進んでいなかったろう距離をさくさく進み、家から最も近い大通りに出た所で、ハンドタオルを出し汗を拭った。ついでにパタパタと扇ぎ、隣を見上げる。 あーあー、また呆然としてるよ。 行き交う車に呆気に取られたフェルさんを放って、ひょいと首を伸ばす。フェルさんの向こう側に丁度コンビニがあるのを確認して、軽く彼の腕を叩くと、再び歩き出した。 キョロキョロしながら付いて来た彼を、一度コンビニの手前で止める。私は今朝から嫌と言うほど彼の不可思議な反応を目にしているが、他の人にしたらそうじゃない。 コンビニに入っておかしな行動をされるのは、未然に防ぐ必要があった。
「フェルさん」
「ん?」
見上げると、私を見下ろす長身の彼。続いて私が刺す為の釘を口にしようとし呼気を吸い込んだのと、彼が視界の端にそれを捉え、顔を向けたのは同時だった。 突然私の後方右手を、驚愕に見開いた目で凝視する。こういう顔は、美形がすると迫力が増すらしい。ちょっと怖い。何がそんなに彼を驚かせたのか、息を止めたまま振り返った。 …………いや、特に何もないんですが。 コンビニを出入りする人がちらほらと居るぐらいで、あとは特に変わった様子もない。しかし彼の視線の先は確かに此方であった。いや、電気だけであの驚きようだ。何が驚きになるか、私も把握出来ないところはあるし、あの昼間でもやたらと明るい照明の量とかでも、吃驚するのかも。
「ミホ殿……」
「へ? あ、はい?」
囁くように言われて、振り向く。と。
「っ!」
凄く間近に、イケメンの顔がありました。
「あの、あれは……扉、か?」
身体が強張った私に気付かず、フェルさんはコンビニを凝視したまま、更に身を屈め私に近づく。う、わ、うわ、ちか、扉、扉って何、近い、扉って何。
「ひ、ひとりでに開いたり閉じたりしているが……あれは、どういう……」
声が、囁きが、近い。 ともすれば、それだけに意識全てが持っていかれそうで、私は必死に彼の低い声が紡いだ内容の方に集中しようとした。ひとりで開いたり閉じたり。コンビニ。扉。 ……――自動ドア! たったそれだけの事に、脳味噌フル回転させて、けれど判った時の達成感は、仕事の書類が一発で通った時に匹敵した。
「自動ドア、若しくは自動扉」
「自動……ではあれで正しく機能しているのか」
若干身を引きながら、コクコクと頷く。流石に重ねた年齢あって、そこまで初ではないつもりだが、何せ私には実際経験が不足している。更に相手は美形、芸術的スタイルの良さ、という高スペック。 確実に心拍数は上がり、耳に熱が集中しているのが判る。意識するなと言い聞かせても、ほんのり香る他人の汗の匂いが邪魔をした。息をするのが辛い。彼に息遣いを聞かれるのが嫌だ。よく判んないけど嫌だ。私の周りだけ気温が上がってる気がする。そしてそれを気取られるのも嫌だ。頼む離れろ。爆発するかもしんないから。
「凄いな………」
いや凄いのは今の私のテンパり具合。
「ミホど………、うわっ」
目を合わせられず俯いていた私の視界の隅で、フェルさんが飛び退くように離れた。それに一旦は私も驚いて肩を揺らせたけれど、直後にはショックが襲い来る。 ええええ……いくらなんでもそりゃねえだろう。 気分的には、地にしゃがみ込み膝を抱えたいぐらいのショック。あんまりだ。その反応はあんまりだよこんちくしょう。
「あ……や、す、すまない」
しどろもどろかよこんちくしょう。
「いえ……」
「すまない」
「いいんです」
「本当にすまん」
「いいって言ってんだろこんちくしょおおおお!」
「えっ、ミホ殿!?」
うわーん! イケメンなんて、イケメンなんてえええ! 耐え切れずダッとそこから直ぐ様コンビニへと駆け出した私は、雑誌コーナーの前で蹲り、膝を抱え、暫しの安静を要した。なんか酷い捨て台詞を吐いた気もするが、それよりも繊細な私の心が休息を求めていたのだ。仕方ないのだ。
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