満員電車が嫌いだった。たくさんの人の温度と匂いでむせ返るような空気に具合が悪くなったり、四方八方からぎゅうぎゅう押されて降りたくない駅で下ろされたことは数知れない。
中学までは地元の学校だったから、一時間に数本のバスに持って登校していた。働きに出る人はだいたい電車を使っていたので、バスに乗るのは同じ中学の子か、たまに学区の狭間に住む隣の中学の生徒がいるくらいだった。
高校に進学するとき、制服が可愛いという理由で都会の学校を選んだのが運の尽きだった。痴漢がドラマや漫画の世界の話じゃないと知ったのも高校に進学してからだった。

発車のベルが鳴り、駅員が駆け込み乗車を注意している。扉が閉まると一層酸素が薄まった気がした。乗り込んだ時は入口付近に立っていたのに、少し気を抜いたら車両の真ん中まで流されていた。目を閉じて、なるべく心を無にする。学校まであと五駅くらい。イヤホンを忘れてしまって音楽を聞けないのがけっこう痛い。

しばらくしてトンネルに入った頃だった。太ももの辺りに違和感を感じた。最初はただカバンが当たっただけだと特に気にしなかったが、カバンが徐々に不自然に動き出した。太ももの柔らかさを楽しむように何度も行き来し、次第にスカートの中へと登ってきた。逃げたくても身動きひとつ取れないし、周りの誰も私のほうを見てはいない。今までの痴漢は少し振り払えばすぐに諦めていたけど今日のは違った。何度止めようとしてもなかなか離れてくれず、しまいには手が直接伸びてきた。こういうときに限って次の駅がやたら遠く感じる。私はまた目を閉じて頭の中をからっぽにした。大丈夫、黙って我慢してればすぐ終わる。大丈夫。……

「あの、大丈夫ですか」

顔を上げると、同い年くらいの男の子が心配そうにこっちを見ている。私と、私の足元、そして後ろにいるサラリーマンを見比べたあと、目を細めた。

「痴漢してますよね」
「は?!な、何言って…」

周りの人たちの視線が一気に集まる。しかし男の子が手を伸ばした瞬間、のんきなメロディーとともに車両のドアが開いて私たちは一気に人の波に飲み込まれた。サラリーマンもそれに乗じてホームへと走り出す。男の子は後を追おうとしてくれたけど、「待って」と言ってそれを制した。

「遅刻しちゃうよ」
「でも…!」
「私は大丈夫」

発車のベルと共に扉が閉まった。男の子は悔しそうにホームを睨んでいた。
痴漢から助けてもらって、さらに遅刻させてしまうなんてとんでもない。

「あの、ありがとうございました」
「いや、大したことしてないです…」

そう言うと男の子は私に壁際を譲ってくれた。

「このへんに立ってれば大丈夫だと思うので」
「は、はい…」

気を使ってくれたのだろう。他の人が私と接触しないよう、私の視界を覆うように立ってくれた。


……それにしても、近い。


これまでの人生で、お父さんと弟以外の異性とこんなに近づいたのは初めてだった。どきどきというより、動揺のほうが大きいかもしれない。男の子は長いまつ毛を上下させて私の顔を覗き込んだ。

「具合悪いですか?」
「平気です!全然、平気」
「ならよかった」

そう言って男の子は少し笑った。
あれ、なんだろうこの気持ち。心臓がきゅっとして、さっきまでの最悪な気分がどこかへ吹き飛んでしまったみたいだ。
なんとなく照れくさくて下を向いたら、電車がカーブで揺れて男の子が咄嗟に壁に手を付いた。

「わっ!ごめん」

慌てて謝られたけど正直そんなこと頭に入らなくて、間近に迫る胸板…というか胸筋に目が釘付けになる。

「すごい…」
「え?」
「あ、いや、その!鍛えてるんだね」
「あぁ、いちおう…。毎日筋トレしてるので」
「どうりで」
「あの、だから安心してください」

男の子の右の胸筋がぴくりと動いた。

「これからは、毎朝僕が守ります。……あ、あなたがよければなんですけど」

左の胸筋が不安を表すかのように一度、二度と波打つ。

「そんな…こちらこそ。よろしくお願いします」

男の子、もとい泉田塔一郎くんは、「アブ!」とよくわからない声をもらし握手を求めてきた。明日から、満員電車がちょっとだけ楽しくなりそうだと思った。



150427
泉田が壁ドン
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