その日のことは今でもはっきりと思い出せる。珍しく退が食器洗いをしてくれると言うから、私はテーブルに座ってキッチンカウンターから見える退のつむじを眺めていた。

「結婚しない?」

テレビに向きかけた視線がぎぎぎ、とキッチンに戻る。退は相変わらず無駄に泡を立ててシンクを汚していた。
普段家事の手伝いといえばクイックルワイパーくらいのものだが、やるとなったら徹底的にやるタイプなのか私なんかより几帳面に食器を擦っている。その様子があまりに真剣そのもので、声を掛けたら邪魔してしまうのではと心配になるほどだった。

「私に言ってる?」
「他に誰がいるのさ」

退と知り合って五年とちょっと。付き合ってから三年、同棲を始めて二年になった。彼が隣にいる毎日が心地良くて、いつしかそれが当たり前になっていた。変化を恐れていたのかもしれない。踏み出すことで居心地の良い日々が壊れてしまうのではないか、と。
泡だらけの手をすすぐと、退は私の向かいに座った。体は私のほうを向かずテレビに向いている。つまらなそうに伏し目がちになるのは彼の癖だ。

「ナマエ、おれ返事待ってるんだけど」
「えーと…その…」
「結婚」
「うん」
「…どうなの」
「……さらっと言うよね。びっくりした」

最初は聞き間違いかと思って、次によく言う独り言かな、と思い直して。この三年で全く考えなかったと言ったら嘘になる。でも「そのとき」が今だなんて、思いもしなかった。

「あーーもう。駄目だ、俺」
「え?」

テレビを見てたはずの退は頭をがしがし掻いて項垂れた。

「ほんとは格好良くプロポーズするつもりだったのに、夜景の見えるバーとかで、良い服着て。全然駄目。台所からナマエ見てたら、結婚したら毎日こうなのかなとか考えて。ナマエの顔見てたら舞い上がっちゃって、なんも準備してないのに、勝手に口走って」

全然さらっとなんてしてなかった。机に突っ伏したまん丸の頭がゆらゆらと左右に揺れている。後れ毛から覗く耳は真っ赤に染まっていた。恋人同士になってから特別ロマンチックなこともしてこなかった私たちだけど、私以上に退は気にしていたようだ。それでも結局格好つかないところは、なんていうか、彼らしい。

「ふふ」
「…笑うなよ」
「可愛いなぁ」
「格好良いがいいんだけど」

そんなの当たり前だよ。

「さがるは格好良いよ」

重そうな瞼から覗く瞳と視線が絡まる。私だって、かっこよくてちょっと抜けてて、それでも頼りになるあなたとずっと一緒にいたいと思う。まだ返事をしてないのに、退は泣きそうな顔で笑った。


160928
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