「だからごめんなさいって言ってるじゃないですか」
もう何度目だろう。呪文のように繰り返す言葉は、きっと彼には届いていない。しゃんと伸びた背中はこちらを振り向いてすらくれないのだ。
「別に怒ってないです」
「その言い方が怒ってますよ」
乱雑に散らばった机の上の書類がどんどん束になっていく。私には訳がわからないけど、きっと想像もつかないほど大事なことが書いてあるんだろう。でもそれを扱う手は心なしかいつもより乱暴に見える。
「私はいつも通りですが」
「う、それもそうか....」
事の発端は私が白澤さまとお茶をしたことに始まる。偶然お店で会って相席をしただけなのだけど、相手が相手だったため鬼灯さまの逆鱗に触れてしまった。なんとかご機嫌を直してもらおうと弁明しているのだが、ずっとこの状態である。
「ねぇ、ごめんなさいってば」
普段から落ち着いて大人な彼だけど、へんに子供じみたところがあったりする。言い出したら聞かないし、好きな物のことになると我を忘れて私を振り回すし。一度へそを曲げてしまうとなかなか面倒くさい。
「あれ、鬼灯さま?」
書類を全て片付け終えたらしく、鬼灯さまが立ち上がった。
「あの、どちらに...」
「金魚草の手入れに行ってきます」
「えっ、ちょっと待ってください」
私の制止を無視してずんずん歩いていくので慌てて追いかける。わざとなのか、普段に輪をかけて早歩きだから追いつくのも一苦労だ。
「鬼灯さま〜」
「....」
「いい加減許してくださいよ」
「....」
「ねぇ」
「....」
「何でも言うこと聞きますから」
媚びるように着物の裾を引っ張って付いて行く。こういうのが意外と嫌いじゃないってことはよく知っている。怒ってるときはこれが一番効くのだ。
「ねぇ鬼灯さ...っう」
突然止まった背中に顔から突っ込んだ。けっこうな勢いでぶつかったのにびくともしない鬼灯さまは流石というか。代わりに私の鼻が一身にダメージを受けた。めちゃくちゃ痛い。
振り返った鬼灯さまは心底軽蔑するような目で私を見下ろしていた。
「...あなた、それで私が食いつくとでも思ってるんですか」
「...…」
「どうせ弱味につけ込んで、いかがわしい要求でもすると思ったんでしょう」
「.......はい」
「はぁ」
盛大に溜息をついて、大袈裟に首を回した。徹夜明けのような疲れた顔だ。
「もういいです」
「許してくれました?」
「下らなすぎてどうでもよくなりました」
「そ、それはよかった」
至近距離から見上げる鬼灯さまはなかなかの迫力で、でも心なしか先程までのような怒気は感じられない。それどころか、なんだろう、まるで亡者を呵責してるときのような...。
「...さてと、どうしてくれましょうかね」
「...ん?」
「何でも言うこと聞くんでしょう」
「え、いや、さっき下らないって」
無表情な彼だけど、長い付き合いの私にはわかる。これは、心の底から楽しんでいる。
「こんな良い機会、利用しない手はないです」
「...鬼ですか」
「鬼です」
問答無用で腕を掴まれ、向かう先は鬼灯さまの自室。部屋に入ると同時に閉じた扉に背中を押し付けられる。肩を掴む両手が熱い。
何をされるかと身構えたけれど一向に手を出してくる様子はなく、じらすように首筋を指でなぞられる。
「なに考えてるんですか...」
私が睨むと鬼灯さまは、なんでしょうね、と鼻を鳴らした。
「まぁ、強いて言うならいかがわしいことですかね」
「....楽しそうですね」
「そうですか?」
一体どんな要求をされるのか、私の帯の結び目に伸びた手が全てを物語っている。
「楽しくなるかは、あなたの頑張り次第です」
帯がするりと床に落ちる。近づいてくる唇に目を閉じると、部屋の鍵ががちゃりと閉まった。
130310