お風呂からあがると、暦ちゃんは読んでいた本から顔を上げた。
両親が仕事で遅くなるとき、私はよく近所にあるこの家に厄介になる。

「おう、出たのか」
「うん。ありがとう」

髪の毛を拭くのもそこそこに、先程まで暦ちゃんにページをめくられていた分厚い小説に手を伸ばす。私が先週来たときにこっそり移動しておいた栞はちっとも動いておらず、びっしり敷き詰められた小さすぎる活字が虚しかった。

「髪ちゃんと乾かせよ。風邪引くだろ」
「平気だよ」

上から手が伸びてきて、辞書みたいなそれがぱたんと閉じられた。
首だけ動かして見上げると、近づきすぎた顔に思わず息を詰めた。

「僕が心配なんだ」

暦ちゃんは洗面所に消えたかと思うと、ドライヤーとブラシを持って再び現れた。
私が腰掛けるソファに私のほうを向いて座って、背中を向けるように促す。

「暦お兄ちゃん優しい」
「なんだよ、千石の真似か?」
「ん。千石ちゃん可愛いよね」
「そうだな」
「にやけないでよ」
「…なんでバレてる」

時々したたる水滴が、薄ピンク色のパジャマを濡らした。パジャマの持ち主である、暦ちゃんの言葉を借りれば、大きいほうの妹は、意外と少女趣味であるようだ。

「暦ちゃんはさ、千石ちゃんのこと、好き?」
「好きに決まってるじゃないか」
「だろうね」
「千石への思いを語ってほしいって言うなら、そうだな。原稿用紙十五枚でもくれれば思いの丈をしたためるぜ」
「遠慮しとくよ」

暦ちゃんは嬉々として話した。ドライヤーを動かす手に、勢いが増す。
今振り向いたら、満面のにやけ顔を拝めることだろう。暦ちゃんが友達や妹の自慢話をするときは、本当に本当に幸せそうな顔をするんだ。



それは、私のことを「可愛い」っていうときも同じ。



「…じゃあさ、私は?」
「もちろん好きだよ」

ドライヤーの風が届いていなかった前髪からぽた、と、ひとしずくが零れた。

「ミョウジは僕にとって、数少ない大切な友達だ」
「うん」

そう嬉しそうに話す暦ちゃんは、心から私のことを大事に思ってくれてるんだと思う。
暦ちゃんは、嘘をつかない。

「私は、すきじゃないよ」
「酷い仕打ちだな」
「…ドライヤー熱い」
「あぁ、悪い」

私の言葉に、吹き付けてくる風の温度がぐんと下がった。乾き始めた毛先が頬を掠める。
これが私なりの甘え方だってことに、暦ちゃんは気づいてくれる。わかってくれてる。

「ミョウジの髪は本当にいいよな」

でも肝心なことはいつだって気づいてくれないし、わかろうとしてくれない。
私はどこまでいっても「可愛い妹」で、暦ちゃんはどこまでいっても「優しいお兄ちゃん」なのだ。

ドライヤーの風に煽られて、手の中にあったページがかさかさと揺れた。
何度も手に取られても一向に栞が進まない長編小説に、私は酷く同情した。
一番近くに居るようで、その実、暦ちゃんは、何にも私を知らない。





130420
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