賑やかな酒宴の席、頬を染め上機嫌な人々の中で、ただ一人、香子は眉を顰めていた。
原因は、香子の顔を不躾に挟む大きな手。その主、藤原公任。
彼もまた、やはり酔って機嫌が良かった。

「なあ、紫ちゃん」
「……その呼び方はやめてください」
「相変わらず湿気た面をしているな。君は」
「そうですね……」
「酒が不味くなるな。はっはっはっ」
「はい……すみません……生きていて」
「卑屈な女だな」
「すみません……」

ああ、もう。何なの、この人。
今すぐにでも、そう叫んで逃げてしまいたかった。しかし皆の手前、そうもいかぬ。
というか、何故この方は、いつも私に構ってくるのだろう。
しかしそんなことは考えるだけ無駄だと、香子は眼を伏せた。どうせ、卑屈で根暗なオタク女を馬鹿にして嘲笑って、楽しんでいるのだろう。

「なあ、紫ちゃん」
「……その呼び方はやめてください」

顔から手が離れた。ほっと息を吐いたのも束の間、すぐに顎を掬われた。
ぞわりと、肌が粟立つ。

「なっ、なななっ、何をなさるんですか!?」
「君は美しいよ」
「はあ!?」

うっとりした表情で、こちらを見つめる公任。今度こそ逃げたかったが、いつの間にか身体をがっちり捕まえられている。

「き、公任様!おお、お離しください!」

必死の訴えが届いているのかいないのか、公任はするりと、香子の指を絡めとった。

「君が描きだす物語は素晴らしい」
「は……っ?」
「君はもっと自分に自信を持つべきだ」
「公任、様……?」
「この私が言うんだ。間違いない」

何が何だか全く分からず、ただただ呆然とする香子の指に、有ろうことか、公任は優しく口づけた。
ひっ、という小さな悲鳴は当然男の耳には届かぬ。

「藤式部」
「はっ、はい!?」
「私が、君の光源氏になろう」

驚く香子を真っ直ぐ見つめるその顔は、今までの酔っ払いはなりを潜め、たいそう真剣だった。
その姿はまさに、幼い頃憧れた『貴公子』そのものだった。

「公任、様……」

優しく微笑む様に、一瞬見惚れていたことに気づき、香子は慌てて顔を背けて呟いた。

「げ、源氏のように……浮気性では、困ります」
「まさか!私は君だけを愛し続ける自信があるよ」

夢に見た貴公子は、朗らかに笑った。
その唇が、いつもは意地悪く歪んだ唇が、ゆっくり近づいてくる。
ぎゅ、と眼を瞑った次の瞬間。
どたーん。

「…………え?」

眼を開けると、隣に寝転がる公任の姿。

「は……?ち、ちょっと、公任様……?」

そっとゆすってみるが、公任は規則的な呼吸を繰り返している。つまり、寝ているのである。

「……何なのよ」

一言呟き、香子はがっくりうなだれた。
その顔は真っ赤に染まり、そしてどこか残念そうでもあった。
幸せそうに眠る公任をチラリと見て、香子は更に赤くなり、両手で顔を覆う。その手の隙間から、消えそうに震える、小さな声が漏れた。

「……ときめいちゃったじゃない……」

紫かをりて

(恋ひぞ来たる)


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