※12巻ネタバレ含みます

「ごめんなさい」

低い声が空気を震わせた。
今この事務所の一室には、俺を含めて二人の人間しか居ない。俺は口を開いていないから、必然的に先の言葉はもう一人が発したということになる。
独り言か、と思った。
彼女はいつも、本を読むとき、ぶつぶつ何かを呟く癖があるからだ。
ちら、とそちらを見ると、驚いたことに彼女――五十音ことはは、俺を真っ直ぐに見つめていた。

「ごめんなさい」

再び、小さく、しかし芯のある声が唇から零れる。

「何かあったのか」

問うと、彼女は困ったように笑った。

「ん、ちょっと、ね」

溜め息混じりに、俺は尋ねた。

「先日、七郷を調べた日からしばらくおかしいな」
「っ、え」

彼女は明らかに動揺した素振りを見せた。

「事務所に関係する人間に対して、態度が変だ」
「…………」
「特に、俺と桃華」
「っ!」

図星だったようだ。
ブラウンの瞳をきょときょとと左右に泳がせたあと、ことははまた、困ったように笑った。「……堕とされたときの夢を見たの」

堕ちた頃のことはは、今とはまるで別人だった。
今でこそ明るく振る舞うことはだが、あの頃はおとなしく、人との交わりを避けるような少女だった。

「それで、あたし、恭助に怪我をさせたでしょ?」

ことはの顔が曇る。

「そのことで、桃華に責められたでしょ?……それを思い出しちゃって」
「……堕とされていたんだから、仕方ないだろう。すぐに治ったしな」
「でも……」

俯かせていた視線を、つ、と上げ、眼鏡の奥の眼を俺の眼と合わせる。

「……それ」
「は?」
「その、眼。あたしの怪我が原因なんでしょ?」
「……はあ?」

桃華には、『ことはが原因ではない』とはっきり伝えてある。
そのことが、ことはには伝わっていなかったのか。

「たまに、迷うんだよね。本当に、たまにだけど。この力、使っていていいのかな、嫌な気持ちにさせてないかな、皆の役に立ってるのかな、って」

困ったような、というよりは、無理しているような笑顔で、ことはは語る。
それから、ぱっと真剣な顔になった。

「だから、さ。『あたしが傷つけた人代表』として、恭助に訊くよ」

俺は沈黙によって、先を促した。

「あたしが力使ってて、嫌な気持ちにならない?あたしの力って、町の皆の役に立ててる?」

真摯な眼差しの陰に、怯えの色が見える。
俺の一言を急かすように、ことはは俺から眼を離さない。
俺は、緊張を解すように、大きく息を吐き、慎重に言葉を選び、口を開いた。

「……当たり前のことを訊くな」
「え……」
「お前の力は役に立っているし、皆のためにもなっている。それを嫌がる理由など、俺には無い」
「恭助……」

ほっとした声で、ことはが俺の名を口にした。

「ありがとう。これであたしまた、闘っていけるよ」
「……ああ」

ことはの声から緊迫感や不安が消えた。
余談だが、彼女の声は耳に心地よい。
鋭くなっていた声が柔らかく丸い普段の声に戻ったことで、俺も安心した。

「さーて、皆が買い物から帰って来るまでに、お掃除でもしようかな!」

完全に吹っ切れた様子のことはに、俺はふと感じた疑問をぶつけてみた。

「なあ」
「ん?」
「トラウマになるほど嫌っていたその能力を、躊躇わずに使える。その理由はなんだ?」

一瞬きょとんとしたあと、ことははケロリと笑った。

「そんなに大袈裟なものじゃないわよ。……ギンの、一言、かな」

七海ギン。
あいつが。
サトリの力を使って、彼女を救ったのかは分からないが、奴らしい行動だ。
しかし、ことはの口から奴の名前が出たその瞬間、胸の辺りに生じた小さな痛みは、一体何だったのだろうか。

コンフリクト

(傷つけた『凶器』は)
(救う『武器』に)


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