画策していた計画を崩すなんて真似、出来はしないだろうけど。
暗い、暗い場所だった。どいつもこいつも暗いか卑しい目をしていて、同じ事を繰り返すだけの、吐き気がするほど退屈な場所。空気までがどんよりと濁っている様に感じて初めはこの場所で空気を吸う事さえ忌んだ。
なのに、今私は此処で自分を売っている。
お金はそれなりに稼げたし。娑婆で働くよりは、ずっと良い。でも、それは女達を縛り付ける為の鎖でしかなく万が一、此処から出ても生きれぬ様に仕掛けた男達の罠でもある。
実際、せっかく逃げ出しても戻って来る遊女は少なくなかった。
だから私は夢はみない。生まれつき、無駄に容姿だけは整っていた所為で楼主も私を手放したがらない事もある。
たまに身請けしたい、という男が出ても、楼主が出した突拍子もない額にたいてい引き下がった。花魁でもない女にそんなに払えるか、ってな具合にみんな頭が冷えるみたいだ。
男なんてみんな、そんなもの。
「お久しぶりでおざんす。晋助様」
「酒は」
来るなり亭主関白の様に振る舞う男に笑みをこぼし、そろりと近寄って望み通りに酒を注いだ。
彼は、郭の客の中でもかなり変わっている。
まず、私を抱かない。これだけでもかなり周りから浮いている。この場所を理解していないのかとさえ思ったが、どうもそうではなかったらしい。
「今日も私を抱かないんですか」
「そんな目ぇした女、抱いたって楽しかねェよ」
決まって、こう言う。あの他の遊女みたいな、目の事だろうか。だとしたら私もすっかり郭に染まったな。
思わず苦笑を浮かべながら、外を見る彼の瞳を見た。
片目だけのそれは、夜闇の様にどこまでも暗く、人を不安にさせると同時に否応なしに人を惹きつける。
何処の男よりも危険を孕んでいながら、どんな人間よりもまっすぐな男。
いつの間にか彼は此方を向いていた。
「俺と来ねェか」
私を見つめたまま、晋助は言った。
わざとらしく小さく息を吐く。
「何度目ですか、それ」
「こんな所でくすぶってるのには勿体ねーよ、お前は」
「ただの女郎に、随分なお言葉ですこと」
にこりと口に手を当てて笑う。
晋助が堅気の人間ではないのは知っている。どうも彼は攘夷志士らしい。それも指名手配されている様な有名人。
何故私などを誘うのか、不可解もいい所だ。
しかし私が遠回しに断った所でこの人はあきらめない。
「剣さえありゃあそれでいい」
「なら道場でも当たって下さいな。わっちは剣など知りんせん」
突き放す為に郭言葉を使う。いつもなら彼もこの辺りで引き下がる筈だった。が、途端に晋助はぐっと私の手を掴んで引き寄せた。
「すっとぼけるのも大概にしろ」
「……いい加減にしてください」
振り払おうにもがっちりと捕まれている為ぴくりとも動かない。しかし私はあくまで冷静を装う。
「おめーは女にしては手が堅ェ。剣胼胝ってのはちょっとやそっとじゃ消えねーもんなんだよ」
「………」
ぴくりと眉がつり上がった。目が無意識の内に細まる。今度こそその手を振り払った。
「剣など忘れました。何度も言いますが他を当たって下さい」
「志乃」
背を向けると晋助は源氏名ではなく、私の本名を呼んだ。今更、それになんの感慨も沸かない。もうとうの昔に捨てた名前だ。
私はまた内心でため息をついた。
「確かに、貴方とは寺子屋以来の知り合いです。でもそれもずっと昔の話」
――私は、自ら、この場所に身を投じた。そうでもしていなければ今にも刀を取り出しそうな自分が居たから。
無表情に死人の荷物を漁る幼い私に優しく触れた、あの人を奪った世界を傷つけないように。あの人の愛した、この世界を壊してしまわないように。剣を捨て、着流しを着物に着替えて、伸ばしっぱなしだった髪を簪で飾って。自分を郭という鎖でがんらじめに縛った。
――どうやら、先生の一方的な片思いだったみたいね。
だって世界はあなたを奪った。
思い返して顔に苦笑が浮かぶ。ほら、思い出してもこの程度。私に自分なんてものはもうない。もう商品に成り下がったんだから。
「――此処は郭。私を抱くなら良い、でも仲間に引き入れるつもりで此処へ来てるのなら直ぐにお帰り下さんし」
これで、晋助も分かっただろう。もう帰る筈だ。他の男達の様に。冷たくすれば、いともあっさりと引く。捨て台詞を吐いて、それでお終い。
これで明日からは昔からの知り合いとも会えなくなる訳だけど、十分だ。また、以前の閉じた世界に戻るだけ。
「此処に染まったつもりでいるのか」
ぴくりと身体揺れた。晋助の言葉が針の様に胸に突き刺さった。反抗する事も出来たが、振り返る事は、出来ない。
この男の事だ、今振り返れば隙を突かれる。
「下手な郭言葉使って、似合ってねェんだよ。それで、染まったつもりでいんのか」
「……なにを」
やめて。積み上げて来た私を、鎖を、潰さないで。
「いいか、はっきり言ってやる。おめーはあの頃から何も変わっちゃいねェ。俺には聞こえる、テメーの獣の呻き声が」
「やめろ」
ぴたりと言葉の洪水が止まる。いつの間にか私は振り返っていた。昔の口調に戻っていた事もこの時は気づかなかった。ニヤリと晋助が笑う。
「いい眼、してんじゃねェか」
「それ以上言ったらぶっ殺してやる」
やってみろよ、と目が言っている気がした。
ああ、こいつならきっとそう言うだろう。
「明日の明朝、迎えに来る」
くどい。
ぎり、と奥歯が軋む。
「近々、懐かしい集まりになる。楽しみにしとけよ」
「………は」
怒りに煮えたぎっていた思考が一瞬、止まった。
私の驚愕に気づいたのか。晋助はいつもの様に笑って続ける。
「ヅラや銀時と一発やる事になる」
「……」
何年振りくらいに聞く懐かしい名前に目を見開いた。
何故、此処に来てその名前が出てくるのか。郭に閉じこもって外の情報からも目を背けて来た私にはさっぱりわからなかった。
どういう事だ?二人とも江戸に来て――
「変わったのはお前だけじゃねェって事だ」
先ほどと矛盾した事を呟く晋助。
だけどこの人が指しているのは、中身のことじゃない。
「覚悟しとくんだな、志乃」
吐き捨てる様に嘲って晋助はようやく部屋を出て行った。
私はただぽかんとして突っ立ったまま。
晋助が――銀時やヅラと?
何故、あの三人が敵対してるんだ?
攘夷志士同士で相反した?それとも、また別の理由か。
沢山の疑問符が頭に浮かんでは、消えていく。
……いや、分かってる。分かってたんだ、本当は。
――いつか、こんな時が来る事くらい。
あの日から。
「――関係ない、私には」
そう。私は郭の人間だ。いつもの様に此処にいて知らない振りをしてればいい。
そこまで考えて失笑が漏れた。
…まるでただの臆病者だ。
ふっと浮かぶここに来た時の想い。同時に、何かを守れるくらいに強くなれと、昔のあの人の言葉が頭を過ぎる。
「私に、どうしろって言うんだよ……」
先程まで晋助がいた場所をみてぽつりと呟いた。
あの時から閉じこもって来た。だからこそ、昔も今も想ってる事は変わらない。
この世界が憎い。
あいつなら、どうするんだろう。
一番、先生に近かった気がする、あいつ。
死んだような目に鈍い光を宿した、あいつ。
「―――――」
あの男なら、答えをくれる気がする。
「………会いに、行ってみるか」
意外にすんなりと決める事が出来た。
ぎゅっと拳を固める。
男の振りをしよう。
夜人混みに紛れて、頭巾で顔を隠せば門を抜ける事もたやすい。
再び窓から外を見た。
私がここを出たら、大騒ぎになるだろう。暫くは楼主も血眼になって探すだろうな。
それを思ってふと口端がつり上がった。どうも性分というのはなかなか変わらないものらしい。
――上等、逃げ切ってやろうじゃないか。
外ではざわざわと男と女の喧噪が響いていた。