必ず勝つのがヒーローだと思っていた。だから弱いのは悪だと思った。
自分は誰にも負けないと思っていた。負けるわけがないと。
それは所詮ちっぽけな公立中学校までの井の中の蛙で、転がっている石っころたる緑谷にえも言われぬ脅威を感じるのは腹立たしかった。
その緑谷が目に見えて追いかけてきたことをハッキリ理解して、自分と同じく選ばれたクラスの連中と比較して、負けるわけがないと確信を持って言えなくなった。それでも誰にも負けないと思った。負けてやるものかと。必ず勝つヒーローが、一番なのだ。
強く引き止める両手にどうしようもなく苛立った。弱いだの負けるだの、そんな言葉にはもううんざりだった。敵の前で、爆豪は助けられてしまったのだ。もうそんなことはごめんだった。
それなのに、彼女は珍しく引き下がらず爆豪をその場に留めた。『爆豪くんにできることがここにあるのに』――そんなもの、戦いの中以外にあるとは爆豪はその時思っていなかったけれど。
幽姫は一言謝罪して、少しばかりすっきりした顔をした。
「言わなきゃって思ってたんだけど、爆豪くんすごく気が立ってたから」
合格者の中に自分の名前が無かったことも、対して緑谷が合格したことも、彼女に理解されていないと感じたことも、気に入らなかった。おそらくあの時声をかけられていたら、また幽姫を怒鳴りつけただろう。
その程度のことを予想できるくらいには、彼女も爆豪のことを理解しているのだろうと今なら素直に思える。
「爆豪くんが勝つとか負けるとか、そういうことにすごく敏感なのは知ってるよ。だけど、爆豪くんあの時冷静じゃなかったし……」
幽姫は言いながら、なんとなく気まずそうにマグカップを揺らしてミルクをゆっくり回した。
「それに、爆豪くんはそれだけじゃないんだよ。監督官の人にも、爆豪くん自身にも、わかって欲しかったんだもの」
「……んだ、そりゃ」
爆豪は眉を少し動かした。幽姫は手を止めて、顔を上げると少し微笑んだ。
「爆豪くんは、人を救けられるヒーローだよ」
――『救けて勝つ、勝って救ける、最高のヒーローに』
思わず目を見開くと、幽姫は不思議そうに首を傾げた。
「どうかした?」
「……なんもねえよ」
――なんでこいつは、時々ざわつかせるようなことを言いやがるんだ。
爆豪はちらりと思った。何も知らないくせに、心をざわつかせ、それでいて……すくい上げるような。
この落ち着かない気持ちは相手に伝わるはずもない。幽姫は少し肩をすくめて言う。
「でも、やっぱり少し勝手だったよね……私が一方的に判断しただけで、爆豪くんがどう思ってるとかあんまり考えられてなくて」
「元々そんなこと期待してねえよ」
そもそも、あの時幽姫がああも強引に引き止めたこと自体も予想していなかった。爆豪ほどではないが、マイペースでフラフラしている幽姫は個人主義的なところがある。他人に反発することはないが、他人の行動に口出しすることもない。
その上で睨まれながらも手を離さなかったのは、彼女なりに爆豪のことを思っての行動だったのだろう。
「……講評に、書いてあった」
爆豪がそう切り出すと、幽姫はパチリと瞬きした。
「あん時、感情的に持ち場を離れようとしたのは減点……制止を無視して行っていたら、もっと大幅に減点しただろうってよ」
配布されたプリントには、つらつらと言葉や態度を諌める文章が並んでいた。最後の方に、感情に任せた行動への指摘。視野を広く持ち、状況を判断するべき――無意識に視野が狭まって、冷静さを欠いた。幽姫が止めずに現場に行ったとしても、その状態ではおそらく役に立たない、どころか状況を悪化させる可能性すらあった。
今になればようやく、そうだったかもしれないと自分でもわかる。
「……テメエの判断は、正しかった。すぐ謝ってんじゃねえよ、自分の行動には自信もってろ」
素直に謝ることもできないのは爆豪の方である。自覚はしながら、そう言った。幽姫は爆豪の言葉に驚いたように目を丸くした。以前もこうして、暗い中で向き合ったことがある。その時の猫のような目の輝きはなく、幽姫の黒い瞳はゆっくり時間をかけてじわりと柔い色を滲ませた。
「ふふ、そっかぁ。嬉しいな」
途端に上機嫌になって、幽姫はホットミルクを一口飲んだ。ふうと息を吐き、くすくす笑う。やっと気まずい空気が無くなって、爆豪はふんと鼻を鳴らした。
「爆豪くんと話したら、なんだかやっと眠くなってきたよ」
「だったらさっさと寝ろ」
「そうだね〜。明日から授業も始まるし」
もっとも爆豪は四日間の寮内謹慎を言いつけられているので、授業には出られないわけだが。わざわざ言わなくても明日にはわかることなので、爆豪は特に何も答えなかった。
幽姫はもう一度マグカップに口をつけて、何を思ったかそれを爆豪に差し出してきた。
「爆豪くんにもあげる。きっとよく眠れるよ」
「はあ?いらねえよ。暑い暑い言ってたくせに」
「もうだいぶ冷めたよ。そっち側口つけてないし、潔癖とかじゃないでしょ」
私もういらないから、と。絶対それが一番の理由だろと爆豪は思った。
しかしニコニコ笑う幽姫の顔を見ていると、なんとなく断る気力もわかず結局受け取ってしまった。
内心軽く舌打ちをしながら、ぬるい牛乳をゴクリと飲み込んだ。人肌の温度はすんなり喉元を流れていって、甘いような後味だけが残った。