新年が明けて早一月と数日。節分の終わりと共に世間から鬼は姿を消し、代わりにバレンタインが鬼のように商戦を繰り広げ始めた。そして街中に桃色と茶色が浸透し始めると同時に悪くなり始めた将史の機嫌。それはモテない男の僻みなどではない。しつこく送られてくるある人物からのメールによってなのであった。
ブー、ブー
(おやおや、またブン太からかな?)
(それは流石にないだろ)
そう言葉を交わして、将史が携帯を取り出し受信ボックスを確認すれば『丸いブン太』と表示されており、わたしからしたらその予想通りのことに将史が一層苛ついたのを感じ取った。
以前わたしが将史の身体を借りてケーキバイキングに行った時に出会ったブン太から、それ以来どこそこで期間限定食べ放題フェアをやるから同行しろ、とのメールが度々来るようになった。だが、将史はわたしと違ってバイキングに行くほど甘いものが好きなわけではない。それに中学生の少ない小遣いでそう何度もバイキングへと行けるわけもない。断りのメールを何度も送ればそれ以降は遠慮しそうなものを、ブン太はめげることなく何度も何度も、おそらく月一のペースで送り続けてくる。苛ついた将史が登録名を『丸い豚』に変えようとしたことは記憶に新しく、それの名残で今なお彼の登録名は『丸いブン太』なのである。そして二月。チョコレートや苺をメインにしたフェアが沢山開催され、連日のように様々なお誘いメールをブン太が送ってくるので、もうそろそろ将史がプッツンしそうなのである。こうして機嫌が急降下し続ける将史が出来上がったのだった。はたはた迷惑である。あの時連絡先など交換しなければよかった。
(いっそのこと、行くかい?)
(そうやって何回か行ってやってんだろうが!)
ぷんすか、と効果音を付けてみたけれど、それでもやはり将史の機嫌はそんな可愛らしいもので片付けることは出来なさそうだ。断りのメールを即座に送った将史は苛ついたまま携帯を乱暴に鞄に仕舞いこんで机に伏せた。
ふぅむ、なんだかいつにも増して機嫌が悪い気がするけれど、どうしてだろうか。将史のことについて分からないことは常々あるけれど、今回ほど想像つかないのは初めてだ。主な原因はブン太から送られてくるメールに他ならないが、それでもなぜここまで機嫌を損ねるのかが分からない。思春期の難しい年頃の男の子にあれこれ聞いて反抗期に入られてはわたしが寂しく て堪ったもんじゃないから過度に踏み込まないようにしてるけれど、この状態が続くとなるとちょっと困ってしまうな。今回ばかりは聞いてみることにしよう。
(将史やい、何をそんなに怒っているの?)
(怒ってねぇよ)
(なら何に苛ついているんだい?)
(別に)
困ってしまった。解決の糸口が全く掴めない。だがこれ以上は嫌われてしまうのが怖いから踏み込めない。何かこの事を忘れるくらい衝撃的なことが起きれば良いんだけれど、そんな都合よくいかないもんだよねぇ……。
そうこうするまま放課後になってしまった。時々思い出したかのように苛ついているのは、きっとブン太から明日もメールが来るのだろうと考えているからか、はたまた先程担任が告げた学年末テストの存在にか。どちらにしろそこまで将史の考えは分からないから想像で補うしかない。でももうそろそろ機嫌を直してほしいなー、なんて思ったりもする。
「荒井くん、ちょっと良いかな」
「あ?」
さあ部活へ行くぞとテニスバッグを手に取り廊下へと出た瞬間、少し高めの声が将史を呼び止めた。不機嫌な将史はチンピラのような返事をして、そちらを見て吃驚したのか肩を震わせた。呼び止めたのは去年同じクラスだった女子で、先程の将史の返事に驚いているのか心なしか顔が固まっている気がする。そりゃ怖いよね、あんな返事は。
(こら、ちゃんとフォローなさい)
「(分かってるよ)あー、ごめん。吃驚して。どうした?」
「あ、歩きながらでも良いかな」
確か中野さんだったかな、彼女はにっこりと笑い、昇降口へと続く廊下を指差した。将史もそれにこくりと頷き並んで歩き出した。部活の話や勉強の話に花を咲かせて歩く二人だが、中野さんは何か将史に用事があったのではなかったのか、と言うくらい雑談で時が過ぎていた。気付けば部室棟近くまで来ている。あと少しで部室に着いてしまうよ?
「あのさ、何か話があったんじゃねぇのか?」
遂に将史も首を傾げながら中野さんに聞いた。彼女は忘れてた、と焦ったように鞄を漁り、鞄の中に手を入れたまま顔を俯かせ固まった。いや、心なしか目をさ迷わせているように見えるが、大丈夫だろうか。その考えが将史に伝わったのか、将史も同じように声を掛けていた。
「どうした? なんか貸してたっけ」
「ち、違うの。あのね、その、これ、良かったら食べて!」
俯きながらも鞄から手を取り出し将史に差し出したのは、小振りの紙袋だった。先程の言葉から中身は食べ物だろうけど、なぜ今なのだろう。はて、と首を傾げる将史に中野さんが早口であせあせと言葉を次から次へと浴びせかけた。
「あの、恥ずかしくて、皆と一緒だと義理とかって思われそうだな、とか、他の子があげた後は嫌だなとか、当日は日曜日だし、その、これ、バレンタインだから!」
顔を真っ赤にして言い切った中野さんはそれじゃ! と彼女の所属しているであろう部室へと走り去って行った。おお、速いな。陸上部かな。それよりも。
(将史やい、隅に置けないねぇ?)
(ううううるせぇ!)
紙袋片手に中野さん同様顔を真っ赤にして立ち尽くす将史に声をかける。そうかそうか、早めのバレンタインか。我が子のように思っている将史の突然の春の訪れに母親よろしく嬉しくなってしまった。実体があればにんまりと笑うわたしの顔があっただろう。
(来月のこと考えないとね)
(わぁーってるよ!)
将史の中から苛々やら何やらが消え去っていたが、目の前のことの方が重大すぎてどうでもよくなっていた。
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