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気まずい。というか、居たたまれない。サッチさんたちから、少し離れた石段の上。いや、わたしのせいだけど。ごめんなさい。あの、本当に。何にも言われないのが余計に怖い。

「あの、イゾウさん、ごめんなさい」
「何が?」
「…その、上司って答えて?」
「あれはおれも傷ついた」
「ごめんなさい…次は、その、ちゃんと言いますから…」
「何て?」
「…か、彼氏って?」
「旦那」

…旦那?いや、は?旦那って、…んん?聞き間違えた?

「…結婚しましたっけ」
「イズルの人生くれるんだろ?」
「えっ、ええ…?あれってそういう感じですか…?」
「貰ったもんは返さねェよ」

髪を梳く手が優しい。あの、本当にイゾウさんじゃ嫌とか、そんなことは全然ないんですよ。ないんですけど。

「…イズルが、船を下りたいなんて言い出したら、どうしようかと思ってた」
「はい?」
「国に似た場所で、国のやつらがいて、それなりに愛着はあったんだろ?」

はあ。まあ、そうか。そうなんだろうな。うん。それなりに愛着はあったかもしれない。帰される可能性を感じるくらいには。

「下りたいって言ったら、どうしたんですか?」
「さァな。どうしてもって言うんなら、諦めたかもしれねェな」
「イゾウさんが?」
「何が幸せか、決めんのはイズルだろ?」

…うん。何が幸せか。どうしたいのか。どこにいたいのか。偶々あの船に繋がって、マルコさんに誘拐されて。確かに、ちゃんと言ったことなかったな。ちゃんと自分で選んでること。

「わたしは、どうしてもあの船がいいんです。いつか下りなくちゃいけないなら、死体になった後がいい」
「…イズル?」
「わたしの幸せは、ちゃんとモビーにありますよ」

笛のような音に次いで、大輪の花が咲いた。楽しかった。桜も花火も。思い出すのも、目にするのも避けたかった景色が、今ではこんなにきれいだ。故郷なんて恋しくない。わたしは、此方に来られて良かった。例えどんなに薄情と言われても。

「イズル」
「はい?」

一瞬。本当に一瞬、唇に触れた感触。いや、あの、だって、そんないきなりする?

「…予告とかないんですか」
「予告?」
「だって、…よくわかんなかった」

甘ったるい発言に自分で眉を寄せた。何だそれ。もう一回して欲しいみたいな。

「随分可愛らしいおねだりだな?」
「うるさい」

笑わないでよ。自分でわかってるから。恥ずかしいなんてもんじゃない。

「キスするから目ェ閉じな」

触れてただけの指先が絡んだ。予告されたらされたで恥ずかしい。世の恋人は一体どうしてんのさ。よくもまあ、こんな、そんな簡単に。

目をぎゅ、と瞑れば、頬を撫でる指がこそばい。さっきよりゆっくり、強く押し当てられた唇と、食むような動きにくらくらする。

「…イゾウさん」
「ん?」
「一緒にいてくれて、ありがとうございます」
「…あんまり可愛いこと言うんじゃねェよ」

イゾウさんのお陰で楽しいことも、嬉しいこともいっぱいある。その根っこがわたしへの好意だって、いつかそれが失くなってしまったって、やっぱりわたしは、イゾウさんが一緒にいてくれて良かった。



***

「よォ、うちから引き抜こうなんて、いい度胸してるな?」
「命があって良かったね?次はないと思うけど」
「…本当に海賊なんだ?」
「白ひげって名前くらい聞いたことあるだろ」
「さァ?おれは此方の人間じゃないしね」
「なら、よく覚えとくんだな。うちは家族に手ェ出すやつに容赦しねェぞ」




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