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ちょっと嘘でしょ何でいるのさ!いつもより走れないのに逃げ切れるわけがない。いつもの靴でだって逃げられないのに。ああ、そうですよ。捕まりましたよ!容赦ないにも程があるわ!

「離してください!」
「おれには見せたくねェって?」
「誰に見せる予定もありませんでした!」

後ろから腹に腕を回され、片手が乱れた髪を直す。余裕綽々ですね憎らしい!

「でもあいつらには見せたんだろ?」
「見せたくて見せたわけじゃないです!」
「へェ」

何だその生返事、聞いてないだろ人の話を!髪で遊ぶな!触るな!離せ!

「…離していただけますでしょうか」
「あァ、もう暫くしたらな」

髪を弄る手を払うと、今度は払った手を取る。何なんだ。あんまり揶揄うのも止してくれ。

「…かわい」
「…っ」

やめて。そこで喋んないで。腕に爪を立ててもびくともしない。正当防衛だ。わたし悪くない。

「そこで、喋らないでください」
「そこってどこだよ」
「そこってそこだよ!」
「ふ…、顔赤いぞ」
「うるさい!」

本当にうるさい!化粧したくらいで、ちょっと肌が出ただけで何さ!碌でもない女に騙されて身ぐるみ剥がれろ!高笑いしてやるわ!

「生憎!化粧しただけで褒められても嬉しくないですし、化粧したのも姉さんです!」
「いつも言ってんだろ。可愛いってよ」
「記憶に御座いません!」

やめて。やめてやめてやめて。溶けそう。何か、心臓溶けそう。

「伝わってねェのは心外だな」

一瞬腕が外れた。気づいたときには目の前にイゾウさんがいた。背中に壁。所謂壁ドン、の、筈なのに、ときめいてる暇がない。どちらかって言うと命の危険を感じる。虎を目の前にした兎ってこんな気分なんだろうか。

「なに、」
「あんまり自覚がねェってのも困りもんだよなァ…」

掴まれたままだった指先に、ちゅ、と唇が落ちた。わたしの人生に於て、そんな経験は一度もないし、予定にもない。なかった。

「自制してるっつったろ」
「は…?」
「可愛い可愛いイズルが、嫌がるようなことはしたくねェからな」

なに…何を言い出したこの人は。あんた選べる側の人間でしょう。何なら選り取り見取りでしょうよ。

「あァ、怯えてんのも可愛いけどな?」

能ある鷹は爪を隠すと言うけれども、獰猛な虎はどこに隠れているんだろう。そんな目で見られる日が来るとは、終ぞ思いつきもしなかった。



***

「どうだ?」
「イゾウの声は聞こえねェな…」
「あの状況でまだ文句が言えるのは流石だよね」
「お、…はは、あいつ何が起きたかわかってねェぞ」
「何か、イズが丸呑みにされそうです」
「イゾウは丸呑みにするタイプじゃないと思うよ?」
「獲物が自滅していくのを待ってるタイプだな」
「イズが気の毒じゃねェ?」
「いやァ、イズも結構しぶといからな」
「お預け食らってるのはイゾウの方じゃない?」




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