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良い匂いがする。ゆらゆらと心地好く揺れる船。揺り篭みたいだと思う。母なる海。父さんがよく言ってる。人間みんな海の子だ、って。

風が吹いている。風が髪を攫って遊んでいる。ああ、晴れている。甲板で馬鹿みたいな話をしながら洗濯したい。それから姉さんと日向ぼっこして、それから。

揺れている。揺られている。船に、海に、微睡みに。酷く気持ちいい。気持ちいいけど、でも体が上手く動かない。

「イズル」

雨だ。細くて細かい、霧雨よりは重い。返事がしたい。ちゃんと言いたい。のに、声が。あれ、もしかしてこれは金縛りとか言うやつでは。途端に息苦しくなった気がする。

「…ちゃんと、待てなくて悪い」

少し考えあぐねて、溢れたような声だった。傘に穴が空いている。傘の内側で雨が降っている。あの時貰った指輪は今だって大事につけている。きっとイゾウさんは、わたしが何で不貞てるのかわかんない。だってわたしは言ってない。

「飯、美味かった。練習してんのも、サッチに食わせなかったのも。だから、正真正銘おれの為かと思ったら、黙ってらんなかった」

審議。何で知ってる。いや、まあ、確かに正真正銘イゾウさんの為だし疚しいことなんか欠片もないですけど。

何故だか、というのは嘘だ。きっとわたしの所為でいっぱい謝らせている。確かに、わたしまだ何にも聞いてないが?と思わないでもなかったけれども、それでも嬉しかったのに。嬉しかったのに謝らせて、そもそも中途半端に駄々を捏ねて、わたしはどうして欲しかったのか。

「…いつか、聞きに来てくれたのか?」

指先が動いた。蝋の型にでも入れられたようだった体から力が抜けた。今度は別の理由で動けない。何か、声が。

「イズルが聞きに来てくれるいつかはいつだ?」

く、と喉が狭まった。答えられるわけがない。狸寝入りがどうのではなく、だって、そんなのわたしも知らない。

「おれは、いつまで待てば良かったんだ?なァ?」

髪を掬って弄っていた手が頭の輪郭に沿って触れた。優しい。壊れ物だか宝物だかに触るより優しい。普通に怖い。怒ってるならちゃんと怒ってるようにして欲しい。

「嫌なら嫌で構わねェ。だが、分かんねェ振りはもういい」

ゆっくりと瞼を開けた。伏せた睫毛の隙間から周囲を伺う。閉じる前に増して暗い書庫。柔らかくはない頭の下は、たぶんイゾウさんの膝。膝と言うか、腿。足元には空いた酒瓶が転がっていて、飲み干した記憶はないから、イゾウさんが飲んだんだろう。そもそもイゾウさんの酒だ。

前髪をかきあげた指先に従って首を捩る。真上にあるのはイゾウさんの顔。イゾウさんの、酷く凪いだ顔。眉間に皺を寄せることもなければ、眉が吊り上がってることもない。目は元々切れ長だし、でも引き結んだ口元は紅が少し掠れている。

何から話そうか。何からにしても、きちんと言葉にしなくちゃいけない。わたしが。

 
***

「いいの?」
「あァ?」
「大事な娘を預けるのが、あんな頼りない男でいいの?」
「グララララ、…あァ、まだまだひよっ子だなァ」
「船長に話す前に、イズと話すことがあるでしょうに」
「どうせ、イズも妙なことで悩んでるんでしょうけど」
「…お前ェら、何が大事なもんかわかるか?」
「…二人の幸せ?」
「あァ。そんで、そいつァ当人達が自分で選ぶもんだ」




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