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「味噌汁が飲みたい」

窓から入る朝日を浴びながら、イゾウさんはそう呟いた。呟きにしては明確な伝達意思があったけれども、声の調子としては呟くで間違ってない。

出航して数日。ここ暫くはずーっと雨続きで、まあ、それなりに皆さん鬱憤が溜まっていて。漸くの曇天まで回復した昨日は、と言うか今朝は、随分早くまで飲んでいたらしい。やたらと気怠気に寝返りを打ちながら、薄くぼやけた目がこっちを向いた。たぶん、今日はこのまま起きてこない。

「…蜆の?」
「二日酔いじゃねェ」

あ、そう。いや、そうでしょうけども。味噌汁。確かに毎日は出て来ない。でもそれは味噌汁に限ったことでもなくて、何と言うか、献立が一巡するのに何年か掛かりそうとか、そういう。勿論、出て来やすい料理もあるんだけども。肉とか。肉とか肉とか。たぶん、今日も肉が出てくる。確かに、言われると飲みたい。

「サッチさんに言ってみましょうか」
「違う」

予想に反して、イゾウさんはベッドから這い出てきた。些か寝乱れた着物を引き摺って、把手に手をかけていたわたしに寄り掛かる。

「イズル」
「…はあい」

妙に甘垂れた声に頭を撫でたら、笑った息が首筋にかかった。ちゅ、とこめかみで、頬で、耳元で音がする。まさかまさかとは思うけれども、わたしはこれからリリーさんたちと朝ごはんを食べて、今日のうちに洗濯物を片すという予定がある。今日に限っては最優先事項。また明日には雨かもしれないんだから。

「…、イゾウさん」
「味噌汁」
「だからサッチさんに言いましょうかって」
「イズルの」
「…は?」
「イズルが作った味噌汁が飲みたい」

不意に心臓に火種を突っ込まれて、血管を巡って燃えた。そういう体温の上がり方をした。随分と使い古された言い回しだ。使い古されたと言うことは、それだけ使われたってことだ。意味を。意味をわかって言ってるんだろうかこの人は。いや、そんな意味がこっちにあるかどうか知らないけど。

「…っふ、はは、」
「…何笑ってんですか」
「いや?随分と可愛いらしい反応だったもんで」

伝わるもんだな、と。そう独り言ちながら、わたしの頭に額をくっつけて息を吐く。頭と首の境目を捕まえて、やたらと嬉しそうに。わたしまだ何にも言ってないが。

「イズル」
「…」
「イズルちゃん?」
「やめてください気持ち悪い」
「返事は?」
「…はい、何ですかー」

若干自棄になった声に、イゾウさんはそれでも満足気に。何なんだ。何なんだ一体何なんだ。

「イズルの飯、食いたい」
「難易度上がってません?」
「上がってねェ」
「サッチさんが作った方が美味しいと思いますけど」
「嫌とは言わねェんだな」
「…わ、わたしが腹括るまで待つんじゃなかったんですか」
「待つとは言ってねェ」

あああああああ言えばこう言う!戦慄いた口に唇が押し付けられて、イゾウさんが手を離した。甘い。飲んだら中毒になる程甘い。視線も仕草も発言も。

「楽しみにしてる」
「…寝込んでも知りませんからね」
 別に炭とか下手物を作る趣味はありませんけど。


***


「…遅くない?」
「そうね。いつにも増してゆっくりね」
「またイゾウに捕まってるのかしら」
「仲良しは結構なんだけど、食事は抜くなってどう言ったら伝わるのかしら」
「あ、来たわよ」
「ふふ、何かあったみたいね」
「何があったのかしらね」




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