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例えばの話をしよう。例えばバイトをしていて、例えば飲食店のホールスタッフ。一生懸命働いて、段々仕事ができるようになって、職場の人との関係も良好。ある日こんなことを言われました。 『いつも働いてくれて助かるよ』 例えば大学で、ノートを見せてくれと言われました。友だちはそれを写真に撮ってこう言います。 『ありがとう!めっちゃ助かる!』 例えばご飯の誘い。例えば課題の情報。例えば発表会のお客さん。いっぱいのありがとうと、相手の笑顔。それを全部意訳するとこうだ。 便利。 わたしが捻くれてることも、相手にそんなつもりがあろうとなかろうと。それ以上にはなれない。そんでもって、努力もしてない。 「イズルは自分で自分に暗示かけてるだろ」 「はい?」 「自分にそんな価値はないってな」 わたしを覗き込んだイゾウさんが、温度のない笑みを浮かべて言葉を落とす。わたしこのまま喋んの?倒れたまま?泣き止んだなら退いてよ。 「何だよ、それ」 「自覚はあるな?」 「…なくはないこともなくないかもしれなくない」 「何だって?」 「馬鹿じゃないの。そんなことしても良いことないじゃん」 「良いこともねェが、悪いこともねェもんな」 「はあ?」 「下手に期待して、裏切られたくねェんだろ?」 鳩尾がざわっとした。やめてよ。そんな話したくない。別に自分でわかってるからいらない。それが、皆に対して失礼だってわかってる。 「当ててやろうか。そのうちおれが飽きるかもしれない」 何それ。何でそんな、自分で言う? 「リリーたちも、愛想を尽かすかもしれない」 腰を下ろしたイゾウさんが、わたしの髪を梳く。 「役に立てなきゃ、そのうち船を下りる日が来るかもしれない」 「…お前そんなこと考えてんの?」 「考えてませんけど」 「ふーん。おれたちに嘘ついて、通じると思ってるんだ」 「嘘じゃない」 「嘘じゃねェなら顔。そんな泣きそうな顔すんなって」 「不愉快なだけです」 ハルタさんが漸く退いて、体を起こす。視線を回したら、目を逸らした兄さんがいっぱいいた。聞き耳立ててんなよ。いっつももっとうるさいじゃん。 「ちゃあんとわかってるもんな?それが、おれたちを侮辱してるって」 「だからそんなこと考えてない」 「そう言い張るんならそれでもいいけどな」 「何でそんな、断定して言うんですか」 「そりゃあ、四六時中イズルのこと考えてるからな。何で助けてくれって言わねェのか、とか?」 「そう言えば我儘とかも言わないね」 「物も欲しがらねェしな」 「別にわたしの勝手です」 「勝手じゃねェ」 勝手です。物を欲しがらないのは既にいっぱいあるから。我儘を言わないのは我儘がないから。助けてって言わないのは、既に助けてもらってるから。あるからいらない。もういっぱい貰ってるから、いらない。 「もっと欲しがれよ」 「もういっぱい貰ってる、」 「何逃げてんの?」 伸びてきた手に体を引いたら、後ろからハルタさんが背中を押さえた。さっきまで泣いてた癖に。腕を掴んだ手が、わたしをずるずる引き摺っていく。抵抗なんて、有って無いようなもんだ。力で敵うわけがない。 「嫌だってば」 「あんまり嫌がると愛想尽かすぞ」 「…、」 「そうそう、いい子にしてな」 「泣かすなって言ったの誰だよ」 「おれが泣かす分にはいいんだよ」 何だ、その横暴な話。心臓がぎゅっとして、まだ息を潜めてる。噛んだ唇が痛い。イゾウさんの指が流れた跡をなぞる。やめて。そんなにいっぱいいらない。返せない。 「もっと自信持っていい」 「何の」 「おれたちに愛されてるって自信」 「そこまでのものじゃな、」 「それ止めな」 ひょい、と顔を覗いたハルタさんの手が、不意に視界に入ってくる。バチン、と音がした。 「いっ、た…」 「おれはもっと痛いなあ。イズルにそんなこと言われて悲しい」 「加減してやれよ…」 「したよ。本気でやったら脳震盪起こしそうだもん」 それ、でこぴんの威力じゃない。脳震盪起こすでこぴんて何。殴られたら死んじゃう。 「そういうこと言ったら、またするからね」 「あー、じゃあ、おれはイズの苦手な食い物でも出すかァ」 苦手な食べ物なんかないし。いや、なくないけど。虫とかじゃなければ食べれる。…嘘だよね?そんなことしないよね? 額を擦っていた手を、イゾウさんが掴んだ。何何何。指折ったりするつもり?ちょっとペナルティがえぐくない? 「うぇっ、ちょっ、イゾウさん何すんっ、…ぅ、」 首の付け根のところ。いつぞやのは気づかなかったけど、今度はわかる。きっつ。無理。何か、お腹がぞくぞくする。 「…それイゾウがしたいだけだろ」 「痕が残ってる方がわかりやすいだろ?虫除けにもなるしな」 「良かったね?いーっぱい愛されて」 「…」 「あれ?今何考えたの?もう1回する?」 「しない」 「じゃあ、返事は?」 「…、ありがとう…?」 「んー…まァ、及第点?」 「もっと愛して、くらい言ってみろって」 「いや、無理」 「はいダウトー!」 「なっ、嘘でしょ!…いっ、」 「それ痣になんじゃねェの?」 「貰い先は決まってるから大丈夫。でしょ?」 「あんまり遊ぶんじゃねェよ」 痛い。めちゃくちゃ痛い。的確にさっきと同じ位置。何これ。泣きそう。 *** 「マルコは行かなくて良かったのか?」 「…ビスタはあれに混ざりてェかよい」 「おれは遠慮する」 「言ってることは最もなようで、結局イズルといちゃいちゃしたいだけだろい」 「本当それ!イゾウばっかり、結局いいとこ持ってくんだから!」 「そりゃァ、イズルが船に乗った時からずっとああだからねい」 「イズルの馬鹿!おれの方が絶対優しいのに!」 「それは間違いないだろうな」 |
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