アイナナ | ナノ
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越えたい境界線



 毎日当たり前のようにしている事でも、環境が変わるだけで緊張して落ち着かない。そんなどこかふわふわとしたままお風呂を済ませて、彼が待つリビングへ向かう。歩いて髪が揺れる度に、トウマくんの「好きに使っていいから」というお言葉に甘えて借りたシャンプーの香りがする。自分から彼と同じ香りがすることに慣れなくて、鼓動が跳ねた。

「おかえり。ちゃんと温まってきたか?」
「うん。お風呂ありがとう」

 頷いてお礼を伝えると、温まってきたのかを確かめるようにトウマくんがわたしの手を取った。触れ合う手から体温が伝わったようで、ちゃんとあったかいなと彼が笑う。そしてわたしの手をするりと一撫でしたあと、触れていた手は離れていった。

「そういえば、このあとはどうする? なんか適当に映画とか見てもいいんだけど……せっかく温まったのに湯冷めしちまうよな」

 ちょっと早いけど、もう寝た方がいいか。そう言葉を続けた彼が、わたしのことを考えてくれているのはわかる。そういう気遣いができる優しいところも素敵だし、好きだなぁって思う。
 でも今日は、トウマくんの家で初めてのお泊まりデート。いつもより長く一緒にいられるのだから、この特別な時間をまだ終わらせたくない。もう眠ってしまうなんて勿体なくて、とてもじゃないけれど寝られそうになかった。

「……まだ、一緒にいたい」

 彼のスウェットの袖をそっと掴めば、ごくりと彼が生唾を飲むのがわかった。
 お泊まりデートならそういうことになるかもしれないと、心の準備は事前にちゃんとしてある。してはあるのだけど、いざそういう流れになったら緊張でどうにかなってしまうかもしれない。だけど、求めてくれるならそれに応えたいと思うわけで。
 つまるところ、そういうことになってもならなくても、まだ一緒にいたいことに変わりはないのだ。

「あのさ、まだ一緒にいたいっつーのは、そのまんまの意味でいいんだよな? 例えば一緒にテレビ見たり、ゲームしたりとかして過ごすっていう……」
「と、トウマくんがいいなら、それで大丈夫。でも、その……違う意味でも、大丈夫、です。ちゃんと、心の準備はしてあるので……」

 ドクドクドク、とうるさいくらいに自分の心臓の音が聞こえる。トウマくんにも聞こえてしまうんじゃないかと思うほど大きく感じて、抑え付けるように胸のあたりでぎゅっと右手を強く握りしめた。

「……先に言われちまったな」
「え?」
「ほんとは俺から言おうと思ってたんだ。こういうのってたぶん、男から言うべきだと思ってたからさ。でも今日、なまえと一緒に過ごしてるうちに思ったんだよ。こうしていられるだけですげー幸せだなって」

 だから、もしなまえにその気がなかったら、まだ心の準備とかできていなかったら。別に今日じゃなくたっていい、また今度だっていいって、そう思ったんだ。
 そう言った彼の手がこちらへ伸びてきて、力強い腕にぐいっと抱き寄せられた。わたしと同じくらい速くなっている鼓動の音を感じながら、トウマくんの背中に手を回す。

「でも、なまえのこと、欲しがってもいいんだよな」
「……うん」

 こくん、と小さく頷く。それが合図のように、わたしを抱き締めていた腕の力が緩くなった。
 どちらかともなく手を繋いで、ゆっくりと寝室に向かう。夜はまだ、始まったばかり。



『Words Palette hug!』より
13.恋の鼓動(背中に手を回す、心臓の音、あったかい)


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