バッグの中からキーケースを取り出して、鍵穴に鍵を差し込みくるりと一回転させる。ガチャリと音がして鍵が開いたことを確認してから、玄関のドアを開けた。
「ただいまー」
なんて言ったところで、おかえりと返してくれる相手はいないのだけど。そう思っていたのに、今日ばかりは「おかえり」と返ってきた。私を出迎えてくれたその人は、調理中だったのかエプロンを身に付けている。
……もしかして私は、疲れすぎて幻覚でも見ているのだろうか。仕事から帰って来たらうちに彼氏がいたなんて、いくら何でも都合が良すぎる。なんだかリビングの方からいい匂いまでしてるし、随分とよく出来た幻覚だ。
「ひ、ヒロくん?」
「うん、オレだよ。急に来ちゃってごめんな。驚いただろ?」
驚いたどころか、幻覚なんじゃないかと自分の正気を疑ったほどです。なんて言えるわけがないので、驚いたよと頷いた。
「あと、キッチン勝手に借りてごめん。ご飯できてるけど、食べる?」
「食べる!」
家に帰って来たらヒロくんが居るだけでなく、彼お手製のご飯まであるなんて。これはもしかして、もしかしなくても私へのご褒美ですか。
「あ、でもその前に……」
ドアの鍵を閉めてから靴を脱ぎ廊下に足をつけると、リビングに向かおうとしていた彼が踵を返した。どうしたんだろうと首を傾げていると、おいでと言わんばかりにヒロくんは両手を広げた。
「久しぶりに会えたから、なまえを充電したい」
それを聞いた瞬間、彼の腕の中に飛び込んだ。その拍子にバッグが床に落ちて、ドサッと音を立てた。
ヒロくんはいとも簡単に私を受け止めて、会えなかった時間を埋めるようにぎゅうっと抱き締めてくれる。それも私が苦しくないように、優しい力で。胸板に顔を埋めると、彼の香水の香りに混じって醤油などのいい匂いがした。そのせいだろうか、私のお腹が空腹を訴えてぐぅと情けなく鳴いた。
「……ご、ごめん」
「ははっ、別に構わないよ。それじゃ、ご飯にしようか」
そう言いながら私の背中に回していた腕を解いた彼は、触れるだけのキスをして離れていく。今はこれで我慢するけど、続きはあとでなんて言い残して。たったそれだけのことなのに、じわじわと顔に熱が集まってしまう。リビングへ向かうヒロくんの背中を見送りながら、もう既に続きを期待してしまっている自分がいた。
『Words Palette hug!』より
26.ベイビーシュガー(両手を広げて、おいで、優しい力)