目を覚ますと天井が見えた。お風呂に入った記憶もないのにきちんと布団に潜っているのはなんでだろうか。たぶん時間は夜で、真っ暗な部屋には障子越しに満月の光が届いている。少したって暗闇に慣れてきた目は、部屋の中にいる人物を捉えることができた。 「国広さん……?」 「! 目が覚めたか」 素早い動きで彼が私に近寄ってくる。身を起こそうとすると制され、国広さんが背中に腕を通して起こしてくれた。別に怪我もしてないし自力で起き上がれるのに、と思ったけれど国広さんがあまりにも真剣なので私は言葉にすることができなかった。国広さんは、時々こんな感じになる。私に過剰な反応をする。確かに人の身は付喪神からしたら脆いけれど、そう簡単にいなくなることはないのに。 「私どうしたんですか?」 「……夕餉を食べて倒れた」 「嘘」 「本当だ」 嘘をつく理由が国広さんにないことは分かっている。だから私はその言葉を信じるしかない。こんなことでこれから審神者としてやっていけるのかな。私みたいな平凡な人間には歴史を守るなんて崇高なことは言えないけれど、おじいちゃんから受け継いだ皆だけは守りたい。 「三日月さんを鍛刀したから疲れちゃったのかな」 「……違う」 「私やっぱり審神者に向いてないのかな」 「違う」 「じゃあ」 どうして、という言葉は口にすることができなかった。折角抱き起こしてくれたというのに、国広さんが思いっきり私を押し倒してしまったからだ。驚いたこともあったけれど、国広さんが強く腕を押さえつけているから私は抵抗することはできなかった。でもきっと、腕が自由だとしても私は抵抗することはしなかっただろう。――だって、こんなにも悲しそうな顔を見てしまったら。 「なんで、どうして、何をやってもお前はいなくなるんだ、砂羽!」 月明かりが差し込んで国広さんの顔を照らす。切なげな表情と、彼の赤黒い輝きを宿した瞳に目を奪われた。国広さんの綺麗な碧眼は消え失せ、以前うっかり本能寺へと落ちた時に馬上で見た敵の刀剣と同じ瞳をしていた。そのことが意味することを考える。私を害する鬼だ、国広さんは付喪神ではなく鬼へと堕ちてしまったのだと理解しても恐怖は湧いてこない。まだ残っている片側の碧眼からぽたぽたと雫が落ちてきて、堕ちてしまっても彼の本質は変わらないことがわかったからだ。 「私はいなくならないよ」 「嘘だ! もういったい何度俺はお前を見送ったと思っている!!」 「大丈夫だよ」 「うるさいうるさいうるさい!! 気休めなんていらない!」 大丈夫だよ、と言おうとした口は国広さんによって塞がれた。不思議と嫌な気はしなかったし、むしろこうなることを望んでいたのかもしれないと思った。感情のままに国広さんは私の唇を貪る。強く激しく。食べられてしまいそうなほど。 (それもいいかもしれない) 私は国広さんになら何をされてもいい。食べられてもいい。全てを許します。その思いをこめて彼の背中に腕を回す。その抱擁といってもわからないくらいささやかな抱擁の瞬間、きっと私たちの最も幸福な時間だっただろう。 「あ……俺、俺……っ!」 我に帰った国広さんが私から飛び退く。部屋を勢いよく飛び出していった国広さんの心情はまったく分からなかったが、彼の抱えている重荷も取り払ってあげたいと思ったのだった。それが私だなんてちっとも気付かなかったけれど。 「おお、こんな場所で会うとは奇遇だな」 「三日月宗近……」 「やはりお前は堕ちているのだな」 三日月に指摘されて山姥切は瞳を隠すが、もう意味がないことを悟ったのだろう。柄に手をかけ相手を見据える。 「そうだと言ったらどうする」 「主を害する意思があるのなら容赦せぬとだけ言っておこう」 「俺はあいつを救いたいだけだ」 「そのために時間を巻き戻しているのか?」 「いつから……?」 「夕餉のときに。顕現したときからここの本丸はおかしいと思っていたのだがまだ確証はなくてな」 「さすがは天下五剣か」 「伊達に年は食っておらぬよ……さてなぜ鬼に身を堕としてまで時を遡るのか教えてくれ。時間遡行の罪を知らぬわけがないだろう?」 山姥切は目を伏せる。その顔には逡巡があったが、もう楽になりたいと望む色も見えた。彼の精神はもう限界だったのだ。何度も何度も愛する人の死を見続けてきたのだから。そうしてポツポツ言葉を紡ぎ始めた。彼は救いたかった。どうしても救いたかった。彼らの最初の主――朝霧砂羽を。運命に潰された、善良な、たった一人の人間を。 「俺たちはあいつの祖父の刀剣ではなく、あいつに鍛刀された刀だった。科学技術が進み、人類の殆どから霊力が失われたこの時代にはもうあいつより後の人間に審神者は期待できない。断る術もなくあいつは戦争に巻き込まれたんだ」 探り探りの毎日。俺たちは砂羽の心の清らかさに惹かれていった。人類最後の審神者を永遠にするため、時間の流れから遮断された本丸で血なまぐさくも安らかな日々は永遠に続くと思っていた。けれど遡行軍に本丸の居場所が見つかり襲撃を受けた。そこで命を落とした。俺たちは砂羽が死んだことがどうしても信じられなくて――そうして過ちを犯した。 「やり直したんだ。何度も何度も。けど何度やっても砂羽は死んだ。だんだん遡れる時間も短くなっていった。審神者にならなければ命を落とすことはないと思ったのに運命はあいつを審神者にした。手元において守っても、すぐすり抜けていってしまう……」 「そうして運命を捻じ曲げるたびに、お前たちは鬼に近づいていったのだな」 時間遡行軍は、俺たちが鬼に堕ちた姿だという。朝霧砂羽は歴史の偉人というほど強大な存在ではなかってけれど、だから彼女が死んだ瞬間から何度も繰り返すことができたのだけど、それでも罪は罪なのだ。運命は定められた通りに進む。何度やったって変わることはない。そうしてどんどん姿は変わっていき、山姥切たちは瘴気を身に纏っていった。彼らの瘴気が本丸の土地を汚染し、人を殺すほどの毒になるほどに。徐々にだからずっと一緒にいた彼女は気付かなかったけれど、新しくきた三日月はわかった。 「人の子を哀れだと思うが……人の身を得たお主らも哀れだな」 遡れる時間が短くなったということは、彼らが神から鬼へ変質していることが原因だ。完全に変わってしまえばもう、たとえ一瞬でも主が生きることはできない。運命に食われてしまう。 満月の光に照らされた金色の夜叉。美しくも哀しい鬼。どんなに抗っても少女を救うことはできないのにその身を犠牲にしても守りたいという。運命の犠牲になったひとりの少女と金色の夜叉の物語を、三日月には愚かだと笑うことはできなかった。 |