あっ、と声を上げてしまった。アイドル科と普通科を隔てる巨大な壁の近くで男女の修羅場を目撃してしまったからだった。ここで密会するのは賢い。なぜなら、アイドル科へ行こうとする不届きものは退学になってしまうので、一般の生徒はなかなか近づかないからだ。急いで逃げ出せば良かったのに慌てすぎていて頭が働かず、近くの茂みに隠れてしまったのが間違いだった。
 男の人は学生にしては明るい髪色だった。顔立ちが恐ろしく整っていることと、長めの髪ということがあって、どうしても軽薄な印象を受けてしまう。あなたのことが信じられない、と涙混じりの声が聞こえる。盗み聞きする趣味はないのだけれど、聞きたくなくても感情が高ぶっている女の人の声は聞こえてしまうのだ。泣き声と、頬を叩いた音を最後に女の人は走り去ってしまった。

「ねえ、そこにいるんでしょ」
「う……はい」
「見た?」
「み、ました……」

 隠れきることができず、彼の前に姿を現す。見れば見るほど美しい男であった。そして同時に、女の子を弄んだひどい男、のはずなのに。

「これ……あげます」
「なにこれ」
「冷やしたほうがいいと思って」
「だからって君、ペットボトルはどうなの?」
「いらないならいいです」
「嘘。ありがと」

 あんまりにも寂しそうにしているからつい優しくしてしまった。勝手にこの人が悪いと思っていたけど、そんなことないのかって思えるくらい頼りない眼差しをしていたのだ。私よりうんと身長が高くて、細身だけど引き締まった身体をしているのに、風が吹いたらどこかへ飛んでいってしまいそう。どうしてこんなにふわふわ漂っているんだろう。

「君、俺のこと知らない?」
「見ない顔ですね……それに制服違うし……あっ」

 今さら気付いたのだけれど、彼の着ている制服はアイドル科のものだった。他校生がなぜここにと思っていたのだけれど、なるほどアイドル科なら納得だ。こちらから向こうへ行くことは不可能でも、逆ならまだ抜け道はあるのだろう。アイドルなら、同じアイドルの可愛い女の子と付き合えばいいのに、と思う。きっと軽薄そうな外見と同じく中身も軽薄だろうから、その「軽さ」に惹かれて女の子がいくらだってやってくるだろう。だって愛とか恋とかは、綺麗で美味しいものだけど、同時にとてつもなく重たいもの。恋愛の面倒くさいところは無視して、楽しい夢だけ見させてくれる外見のうつくしい男のことをほうっておく人のほうが少ない。だから普通の女の子じゃなくて、もっと可愛い女の子を選べばいいのにと思うのだ。

「やっと俺が誰かわかった?」
「アイドル科の人なんですね」
「えっ」
「違うんですか? やっぱり不法侵入ですか?」
「きみ、羽風薫って知らない?」

 羽風薫。なんとなく、聞いたことはあるかもしれなかった。けれど彼は画面の向こうの住む世界の違う住民であって、私とは距離が遠かったから、名前は知っていても(もしかしたら見たことがあったかもしれないけれど)顔を覚えていなかった。この時私はまだ、彼を同じ人間としてみていなかったのだ。

「名前は……」
「うわ、割とショック。とまあ、それはさておき、君の名前は?」
「みょうじなまえです」
「よしなまえちゃん、今日から君は俺の彼女だ」
「……なんで、ですか?」
「だってなまえちゃんさっきのアレ見ただろう? 俺アイドルだからスキャンダルとか困るから、口止め」
「言いませんよ」
「証拠は?」
「ない、ですけど」
「それじゃあ信用できないなあ」

 そっちの失態なのに、なんで私がこんな目に遭うのだろうか。好きな人も彼氏もいないけれど、見ず知らずの……こんな軽薄な人といきなり付き合うなんてごめんだ。

「大丈夫だよ。俺優しいから女の子の嫌がることしないよ。言わない証拠として形だけでいいから付き合って欲しいんだ。……好きな人ができたらすぐに別れてあげるし」
「でも」
「それとも彼氏とか好きな人いる?」
「いませんけど」
「それならいいじゃん。自慢できるよ? こんなかっこいい彼氏だよ? 今すぐのリークは困るけど、数年後にはきっと」

 なんてさみしいことを言うのだろうと思った。彼は、まるで自分に一切の価値を感じていないみたいだった。どこまでも刹那的な人だ。形だけの彼女でいいなら何故そこまで拘るのか。一瞬でも明確な形で誰かがいないことのなぜ怯えるのか。先ほどであったばかりだから何もわからない。分からないけれど、華々しい彼の心の中にある孤独が私の方へ手を伸ばしてきたから、愚かにも私は手を取ってしまった。



 結局押し切られる形で私と彼――羽風薫は付き合うことになった。連絡先を交換した。昼休みが終わってしまうから急いで教室に駆け込んでスマホを確認すると「これからよろしくね」と顔文字を使ったメッセージが届いていた。こちらこそ、と返信してそのまま検索サイトに彼の名前を打ち込んだ。UNDEADというグループ名がでてきたのでクリックすると黒を基調とした衣装を着た写真がでてきた。その中にさきほどの彼もいた。王子様みたいなアイドルかと思っていたのでイメージとの差異に笑ってしまった。夢ノ咲学院で最も過激で背徳的と謳われるユニット、だって。苛烈さも官能的な雰囲気も感じなくて、どちらかと言えば少女漫画に出てくるヒーローの一人な性格なのにどうしてこのユニットに入ったのだろう。次にあったとき、話題がなかったら聞いてみよう。

「アイドルって暇なの?」

 そう口にしてしまって、慌ててあたりを見渡す。誰も気づいた素振りはない。安心してスマホを覗き込んだ。あれから結構な頻度で羽風先輩から連絡が届くようになった。付き合っているんだから名前で呼んで欲しいと言われたけれど、初めての彼氏なので恥ずかしいですと断り、あれやこれややりあって慣れるまでは名字で呼ぶことを許されたのだった。学校生活と練習とお仕事があるはずなのに、いつでも連絡が来る。返事も早い。それに何より頻繁に会いたがる。学校の外で会うのは怖いからと、昼休みにあの場所であうことになった。それがこっちにもあっちにも一番いい形だし、効率的である。羽風先輩はたくさんの女の子に同じことをしてきたのだろうなと思った。そばに誰かいなくちゃいけないくせに、彼は実に効率的な恋愛をしている。

「お待たせしました?」
「ううん、今来たところだよ」

 嘘だってわかってる。普通科からアイドル科はとてつもなく遠い。小走りできても軽く五分はかかってしまうのだ。収録とかの関係で普通科よりは遅刻や早退に緩いとはわかっているのだけれど、それでも心配になるのだ。どんなに忙しくても、羽風先輩は女の子に忙しい素振りを見せないし、待たせたりしない。連絡をおろそかにして不安にさせたりしない。とっても大事にしてくれる。
 けれど。
 けれど、私には自分がそれほど大事にされる価値があるとは思えないのだ。優しくされて、甘い言葉をたくさんもらって、だんだん気持ちは彼に向いてきたけれど、それでも彼に好きでいてもらう権利はないと思ってしまうのだ。私と羽風先輩の容姿に大きく差が開いているのもある。けれども一番は、先輩と私の気持ちに差が開きすぎていることなのである。


「羽風先輩……!!」

 恋とは、怖い。最初は全然興味がなかったくせに、気付いたら私は先輩に夢中になっていた。いつもの待ち合わせに、少しでもはやくたどり着きたいからって走ってしまう。先輩は私の姿を認めると嬉しそうに笑った。私が声をかけるまで、迷子の子供のような不安な顔をしていたくせに。華やかな先輩には不釣合いな孤独の匂いがする。母親を失ってしまった幼い子。ひとりの孤独に耐え兼ねて、代用品を探している、そんな匂い。いつからかそれが、私を掴んで離さなくなった。

「なまえちゃん、そんなに急がなくてもよかったのに。俺は逃げないよ?」
「私が、先輩に早く会いたかったんです……っ!」
「……嬉しいなあ」

 素敵な人に優しくされて、その気持ちが本物だと、遊びじゃないと知って、私はどんどん先輩を好きになる。好きになれば相手のことを知りたくなる。相手のことを知りたくなってくると、余計なことに気付いてしまう。先輩は、一人になるのが嫌なだけで、相手は誰でも良かったんだということに。私の気持ちは深まるのに、先輩は、出会った時の感情のまま一切変わってないということに。
 好きだよ、という言葉が「傍にいてよ」という言葉にすり替わる。
 寂しいよ、という言葉に彼の孤独を埋められない力不足を知る。
 だんだん不安になっていって、爆発してしまった。あなたのことが信じられない、と涙混じりの声が聞こえる。聞きたくなくても聞こえる。だってこれは、いつかの名前も知らない女の人の声じゃなくて、紛れもない私自身が発している声なのだ。感情のままにすすり泣きながら、匂い立つ先輩の孤独を感じていた。この、匂い。これがあるから女の子は先輩に惹かれずにはいられない。軽さと華やかさを纏う外見と正反対な内面。似合わないと思った彼のユニットと、彼の内面はきっと一致しているのだ。ここまで先輩の事を分かっても、私は先輩に何をしてあげることもできないのだ。

「先輩は、ほんとうに私のことが好きなんですか……?」
「うん、好きだよ」
「嘘つき。隣にいてくれたら誰でもいいくせに。私はその言葉、信じられません」

 遠く、泣き声と、頬を叩いた音が聞こえて。手のひらの痛みと先輩を失った喪失感から逃げ出すように私は駆け出した。そのとき、茂みに顔の見えない女の子の姿を認めた。

「あっ」

 小さな声が聞こえる。これはきっといつかの私で、その前の名前も知らない女の人で、これからもずっと彼の孤独に引き寄せられる女の声だった。