九条天はたくさん猫をかぶっている。ファンの前にいるときとプライベートのときは全く違う。ファンの前だとあんなに愛想も良くて可愛くて、でもメンバーの前だととっても塩対応。あの笑顔はどこに行ったのと言いたくなるほど。プロ意識が高いのはいいことだと思う。猫かぶりと言われても、アイドルとは夢を与える仕事だから、その仕事がきちんと果たせていればいいのだ。アイドルとしてのキャラクターと現実の自分との乖離は人によっては自分を傷つけることになるけれど、幸いなことに天にその兆候は見られない。けれどメンバーの前だけの天も素の天ではあるけれど、もう一枚、もっと親しい人の前でしか脱がない猫もあると思うのだ。

「なまえ」
「あ、天」

 つらつらととりとめのないことを考えていたらいつの間にか天が私の部屋にやってきた。お互いの家の合鍵は渡していたけれど(マスコミに彼の家はバレているから私が使うことはないのだけれど)彼自身の多忙さと、ゴシップは御法度の関係性からお互いの家に行き来することはあまりなかったから驚いた。やり取りはいつも電話かラビチャだし。公私はきちんと分けるし、色恋のせいで仕事に影響を与えるようなことはしない人だったから、嬉しいという気持ちよりも驚きと心配の方が優った。

「いきなりごめん、電話したけどでなかったから」
「いいよ。ぼーっとしてただけだし、暇だから」
「よかった」

 なにか飲み物入れてくるから座ってて、ありがとう。色違いのマグカップにこの間買った紅茶を入れる。天は気に入ってくれるかな。普段はほとんど片方しか使われないマグカップがこうして使われる様子を見ると、私の日常の中に天の色が混ざっていることに気づいて嬉しくなってしまう。

「いい匂いだね」
「この間お店に行ったら試飲しててね、香りも素敵だし、飲んでみたら味もすごく好みでつい買っちゃった。おいしい?」
「うん。なまえが好きそうな味がする」
「何それ、意味わかんない」

 幸せだから私は笑った。釣られて淡い笑みを天はこぼした。天はいつだって私の日常の中にいる。街中のポスターに、いきつけのお店に流れる音楽の中に、部屋で見るテレビの中に、いつだって彼はいる。会えなくても毎日顔が見れるから寂しくない……と言えば半分くらいはうそだけど、いつでも好きな人の顔を見られる女の子って幸せじゃない?
 でもやっぱり本物の天は特別。皆のアイドルの天はかっこかわいくて素敵だけれど、私の前でテレビの中より2℃くらい温度の覚めた表情の天は、私だけのものだから。

「この間CMの撮影で食べたグミもなまえの好きそうな味がした」
「え〜なら新しくできたパン屋さんのパン、天の好きそうな味がしたよ」
「本当? なまえにボクの好みがわかるかな」
「あっ、馬鹿にして」

 くだらないこと話すのは楽しい。好きな人と交わした言葉は、どんな些細なものでも特別な響きを持って胸の中にしまわれる。普段は楽しい気持ちでしまわれるそれも、今日は少しだけ色褪せていた。そんな私の表情を悟ってか、彼は問うた。

「どうしたの? 元気ないみたいだけど」
「ううん……」
「ボクには言えないこと?」
「違う!……えっとあの、なんで今日、来たのかなって」
「……何それ。理由がないと会いに来ちゃいけないの」

 天はしっかりしている。そしてきっちりしている。だから会いに来るときは連絡をくれるし、会いたい理由か、会える理由を教えてくれていた。だから私は安心して合うことができたのだった。それが今日はどちらもなかったから、どうしたのかな、何かあったのかなって心配になっただけなの。必死に弁解すると、彼は長く息を吐いた。

「なんでなまえはなんでも分かるの」
「え?」
「今日、久しぶりに弟にあったんだよね。こっちから連絡絶っておいてなんだけど、弟の周りにいっぱい人がいるの、なんかもやもやした」
「ええ、それってさあ」
「分かってる。嫉妬だ。ばかみたいな」

 いつか、天がわたしに話してくれたことがある。自分には双子の弟がいると。体が弱くて、たまに言うことを聞かなくて、自分がいなくてはダメだったと。彼のわかりにくい優しさと世話焼きな性格はその弟の影響があるんだろうなと私は思っていた。天は愛情深い性格だ。表面はどう見えたとしても一度懐に入れた人間を突き放すことはない。それに世話を焼かれるより焼くほうが好きなんだろうということもなんとなく感じていた。身内に見せる甘えが冷たい取り繕わない態度の天。そんな、天が。

「それで私に甘やかして欲しくなったってこと?」
「……そうだよ。悪かったね」
「ううん、とっても嬉しいよ!」
「憎たらしい」

 私に寂しくて、甘えたくてやってきたなんて信じられない。愛想のいい顔の下の冷たさ、そしてその下の、柔らかくて弱い部分を私だけに見せてくれたことが嬉しくて、白い肌を赤く染めた天を幸福な気持ちで眺めるのであった。