雨が降っていた。

滴が水溜りの水面に落ちる音がふとやけに近く感じて、玄関先で暗闇に鎮座する静寂の中に耳を澄ます。

ドアの外に人の気配を感じる。わたしが息を張り詰めさせながら玄関先を覗き込んで直ぐにドアノブが捻られた。一度で扉が開かれずに、そうっと、控え目に何度か繰り返されたというのにドアは開かれることはない。当然だ、このような夜更けに施錠もせずに就寝する人間などどこに居ようか。
束の間の静粛を置いた後、鍵を差し込む音。つまりは鍵を所持している人物の仕業だったことが判明しあらゆる最悪の状況に肝を冷やしていたわたしはその時点で泥棒かと身構えていた警戒を解く。
かちゃりと軽い音がして開いたドアの向こうから現れた人影が、濡れた靴を歩く度に踏みしめて水が染み出るような音を伴いながら侵入してくる。真っ黒に塗りつぶされた空間をぬって「痛てっ」という聞きなれた声が鼓膜に割り込んできた。馴染みのあるその声が壮五の声だと知認した頃にはわたしが駆け寄る足音がとうに彼の耳にも届いている頃で。
手探りに玄関の壁に設置されてい電灯のスイッチを手のひらで押せば漸く雨に濡れてずぶぬれ状態の壮五を目視する事が可能になる。わたしが一心に彼に視線を注ごうが彼と視線が合う事はない。玄関の電灯もつけず衣類や髪などに纏わりついた水滴にさえも気を止めずに就寝しているであろうわたしに気遣って音を抑えながら靴を脱ごうをしていたのだろうか。どうやらドアを潜る際に距離がうまく差し測れず頭をドアにぶつけたらしい壮五は、額のあたりを撫で付けていた手を下ろして俯き加減のまま動きをみせない。壮五の支えがなくなったドアが勝手にがしゃりと閉まる。

家に入る支度は十分に整っているというのに、壮五はいつまでも中に入ろうとしない。わたしが声をかけようと唇を開いた瞬間、壮五がぽつりと漏らす。
「雨が、」
そこまで言って、不自然に口を噤む。
「・・雨?」
「・・・当たり前の事だけど、誰も迎えに来なかったんだ」
長い前髪の毛先から冷たそうな水滴が雨に濡れて光っている壮五の手の甲に落ちる。
「・・・どういうこと?」
わたしが問いかけようが彼は首を横に振るだけでもう続きを応えるつもりはないらしかった。

わたしは壮五の返答はもうないのだと見切りをつけ、バスルームから急いでタオルを持ってきてそれを差し出す。頑なに受け取るのを拒否するのでそれを頭から被せてやれば彼はしぶしぶといったふうにそれで髪を拭きはじめた。
これまで彼は雨が降ろうが降らなかろうが、関係のない生活をおくってきた。運転手も、車も、全てを持っていた彼が、迎えに来なかったと言ったのは、そういうことだろう。家出した身である彼の所在も知り得ない運転手がいつものように彼の元へ迎えの車を出せるわけがない。

小さなマンションの端側の部屋。
このような夜更けに物音はない。ざあざあと雨が地を叩く音だけが耳につく。大粒の雨は泥水を吸って決して綺麗な色をしていないだろうが、その音だけは耳にやけに綺麗に残った。
ちらりと見回したマンションの中は軽く見ただけで部屋の隅まで見渡せる程度の大きさだ。彼が、家出をして取り急ぎ用意できた必要最低限の住まいだった。
壮五は玄関先のフローリングに横たわりぼんやりと天井を見上げている。天井との空間にわたしがひょこっと顔を出せば、壮五はにこりと口元で笑ってわたしに手を伸ばしてくる。
「うん?なあに?」
白い指がちょいちょいとわたしに手招きをした。わたしは顔を近づけ、壮五に耳を貸す。
「・・・一緒にお風呂はいろうか?」
「はあ!?」
「あははは!冗談だよ、冗談!」
勢いをつけて起き上がり、壮五はわたしに湿気ったバスタオルをかけてわたしの視界を奪うとわたしが咄嗟のことに身動き取れないでいるうちにバスルームに向かっている。わたしがバスタオルを取り去り、バスルームに向かうと、彼はなにやら神妙な顔つきで浴槽を覗き込んでいた。
「どうしたの?そんな顔して」
「・・・うーん、別にどうってわけじゃないんだけど」
返答に窮したように目を反らしてもこの狭い場所では鏡越しに目が合ってしまう。一度ずらしたはずの視線が思わぬところで再会して、壮五は苦笑いをかみ殺すような顔をする。
「これ、お風呂だよね?」
「そうだけど」
「足が伸ばせないんじゃないかな」
「でもお風呂だよ」
納得いかなさそうにしている壮五をバスルームに無理やり押し込んでわたしはバスルームを後にした。

やがてジャージ姿でバスルームからでてきた壮五は狭いシャワールームの扱いにさぞかし苦戦したのだろう、節々をおさえつけながら慣れない様子できょろりとしきりに周囲を見回し、部屋の隅で落ち着かなさそうに正座した。彼の手足に痣が出来上がるのも時間の問題だろうなと密かに思う。それに何ら意味はないのだろうが、ベットで寝転がりながら携帯をいじっていたわたしに彼がしきりに視線をよこすので、わたしは数秒間限定の沈黙を置いた。
そういえば。
わたしはテーブルの上に置いてあるおにぎりと軽い軽食の乗ったそれを指差す。
「おなかすいてない?」
壮五はお皿とわたしとを何度か見比べ、恭しい様子で受け取る。髪の完全に乾いていない壮五の、少ししゃきっとしていない姿を他に見た者はいるのだろうか。ふわふわの髪は元気がなくぺったりとしていて幾分か彼を幼くさせる。かわいい。
「驚いたなあ・・・君は料理もできるんだね」
「あしたは何かもっとマシなのつくってあげるよ、ごめんね。そんなので」
「ううん。僕は君が作ってくれただけでうれしいよ。ありがとうございます」
なんと返答すればいいのか分からなくてわたしはそのまま押し黙る。本当に、料理と呼称できるような代物ではなかったのだ。
甘える事が許された家庭で育ったわたしが自ら料理をすることなど一度としてなかったし、しようと思ったのもこれが初めてで、これが精一杯。つまるところ。完全な強がりなわけで。学校の調理実習の内容も脳内に記憶として残留している筈もなく、誰でも作れるような単純なものばかりで。
それでも壮五がこうして喜んでくれたお陰でわたしにも些かばかりの安寧が訪れた。途端に急激な睡魔に襲われる。懸命に意識を呼び起こそうとしても、うとうとしていたのが彼にも分かったのだろう、ふっと息を吐くようにわらって彼は布団をわたしにかけてくれる。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
 壮五がわたしの作った料理を食べるのを霞んでいく視界で見ながら、口に合うといいな、と思った。たとえ美味しくなくっても。彼の好みに合えばそれだけで幸せ。
 まどろんだ意識の中で、布団に誰かが潜り込んでくる気配を感じた。家を飛び出す前のベッドの半分くらいのスペースにわたしと壮五はふたりで眠っている。狭いけど、となりに誰かの体温があるのはいい。広いベッドだとぬくもりはすぐに途絶えて、寒くて、寂しくて。世界に取り残された気持ちになるから。彼がいるから今日もいい夢が見られるだろう。



 壮五がいれば他には何もいらない、と縋ってわたしは彼についてきた。婚約者で、名前だけじゃなくそれなりに愛を交わしていた関係だから特別に、と壮五が家を出ることを教えてくれたのだ。そのことを嬉しいと思うと同時に馬鹿だなあ、と思った。女の子は迷惑な生き物なのだ。わがままだし、泣き虫だし、弱っちいし。好きな人に「これからしばらく会えなくなるよごめんね」なんて言われて笑って送り出す女の子なんていない。いや、世の中にはいるのかもしれないけれど、少なくともわたしにはできない。だってそんなに強くもないし人間できてないもん。だから連れて行って、とわがままを言って困らせることなんて簡単に想像できたはずなのに壮五はなんでわたしだけに言ったんだろう。寂しかったのかな。傍にいて欲しかったのかな。そうだといいな。

「いってきます」
「うん。いってらっしゃい」

 働かないと生きていけないから、わたしも壮五も生まれて初めてのバイトなるものをしている。あちらの都合だから休みが一緒になることもあるし、被らないときもある。学校に顔を出したら親に捕まっちゃうから、バイトがないときはすることがない。慣れない家のこととか、頑張ってやるんだけど、それでも時間は余ってしまう。することがないといらないことを考えてしまうからいけない。
婚約者同士が、駆け落ち。これを両親はどう取るだろう。若さ故の過ち? 本当に想い合ってくれてる? キズモノにされた相手と新しい縁談は難しいだろうし、こっちにとってはいい相手だから婚約解消にはならないと思うから、そこは安心だけど。この逃亡生活はいつまで続くのだろう。壮五には考えがある。わたしはそんな彼についてきただけ。わたしは一体何がしたいんだろう。


「アイドルに」
「うん?」
「アイドルにならないかって、言われて」
 学生の味方! もやし生活! とネットで見かけて、節約を心がけないといけないしと興味本位で手を出したところだった。使ったことのない食材だからよくわからなかったけど、食べられそうな見た目になって安心していたときにバイトから帰ってきた壮五が突然そんなことを言いだしたのである。あまり表情が変わらない彼が、かなり心を動かされているということをなんとなく察してしまった。
「なるの?」
「わからない、けど」
 社長さん、凄くいい人で。
 ああもうこれは、心を決めてるなと女の勘が告げた。もう無理だ。やめてって縋ったとしても彼は今度こそわたしを置いていくだろう。本当に、女の子って、やだな。いっつも置いていかれる。
「うそ。なるんでしょ。わかるよそれくらい」
「なまえ」
「恋人に嘘つくのはやめてよね。置いていくのは、いつか迎えに来てくれるなら許してあげるけど、それだけは許さないから」
「わかった。約束する」
「絶対だよ。ね、そろそろご飯食べよ」
「……なにこれ?」
「もやしだって」
 これが食べ物なんて信じられないって顔した壮五はとっても可愛い。わたしね、その顔が見たかったんだよ。ありえないよね。


 アイドルになるからには、事務所の寮に入らないといけないらしい。その決まりはよくわかんなかったけど、わたしと壮五の二人だけのあの小さな部屋からでていかないといけないってことだけは分かった。
 壮五が寮に入る日、つまりわたしとお別れの日、びっくりするほど激しい雨が降っていた。わたしと壮五は雨の日に傘をさすことを覚えた。傘の下にいると、雨音はまるで音楽のように聞こえる。明るい曲じゃなくて、寂しさを助長させる曲。
「じゃあね、なまえ。付き合わせたくせに送ってあげられなくてごめん」
「いいの。ねえ壮五」
「なに?」
「連絡は、してもいい?」
「もちろん! いつだって構わないよ」
「それじゃあ元気でね」
「君もね」
 背を向けて別々に歩き出す。一人になったらよりいっそう雨音が胸に響く。傘を叩く雨の強さはメッゾフォルテ。その日も雨が降っていた。




/相互の「くらげの骨なら」のちいさんとコラボで、前半と後半に分けてひとつのお話を書かせて頂きました。