山姥切がこちらの時代に来てから数ヶ月経った。自分でも驚くくらい心が凪いで、平穏な日々だった。薪をつくり、城の人々と会話するだけの穏やかで優しい日々。九鬼が時々仕事中の自分のところへやってきては他愛もない話をするのが、変化といえば変化だろうか。話していて分かったことだが、九鬼はあれでいて随分な苦労をしていた。これから先うまくやっていくために村の人とどう仲良くすればいいかなど、小さな娘が背負うには余りにも大きいものを彼女は背負っていた。ぽつぽつ話すことの中に、九鬼の婚約者の話があったのが、なぜか山姥切の胸を締め付けた。
 なぜこのように心が落ち着いているのだろうか、と山姥切は考えた。やはり自分と同じ、刀の付喪神が傍にいないからだろうか。
 それは不正解である。山姥切国広はいつだって自分に自信がなかった。卑屈だった。そのコンプレックスの原因の一つに「写であること」があるのは間違いないけれど、彼はそれを言い訳にしていただけだった。大人びた振る舞いができないのも、他の人と違って一回で物事をこなせるようになれないのも、短刀もように素直になれないのも全部自分が写のせいだった。本当はそんなことないって知っているくせに、言い訳にして、自分の心を――プライドを守っていただけだったのだ。
 でもここにいる人は、違う。最初から異物でしかなかった山姥切を受け入れて優しくしてくれた(一人、九鬼の許嫁だけが彼のことをよく思ってはいなかったのだけれど、それを本人は知らない)のだ。「阻害されて当たり前」の自分を受け入れてくれて、それが自信になったのだった。

「そう言えば、審神者から連絡が来ていないな」

 自分があまり鏡や水辺にいかなかったのもある。けれど風呂には頻繁に入っているし、そのときに連絡が入ってもいいはずだ。以前一度湖に足を運んで通信を試みたのだが、まったく反応がなかったために諦めたのだった。頼りがないのは良い知らせとは言うけれど、あの心配性でお人好しの審神者が一度も連絡をよこさないとは到底思えない。急に気になった山姥切は、寝所をそっと抜け出して湖に足を運んだ。



「誰っ!?」
「え?」

 まさか夜分に誰もいるまい――と気を抜いていたのもある。けれどすぐ傍にいる人間の存在を感じ取れなかったなど、刀の名折れである。戦場からしばらく離れるだけでここまで感覚は鈍るものなのか、それとも相手が九鬼だったからなのかは分からないけれど。

「九鬼……?」
「その声、王丹? やだっ、こっち見ないでよ!」

 満月なのが幸いか、それとも災いか。どちらと取るかは本人次第だが、満月の明るい光のせいで山姥切は九鬼の裸体を見てしまった。自分とは違う、しなやかな曲線を描く身体。月の光に照らされた肌の白さはどうにも忘れられそうにない。

「わ、悪かった。そんなつもりはなくて……」
「いいから、見ないで!」

 悪いのはこちらである。気まずい空気のまま、闇を見つめるしかなかった。夜で周りの物音があまりないからだろうか、がさごそと衣擦れの音が聞こえるのが心臓に悪い。その音で嫌でも先ほどのあれを思い出してしまうからだ。

「もういいよ」
「ああ」
「びっくりした。なんでこんな時間にこんな場所にいるの」
「眠れなかったんだ……ではなく! お前こそ女がなんでこんな時間に出歩いているんだ、危ないだろう」
「心配してくれてるの?」

 じっと、見つめられている気配がする。いや、打刀である山姥切が夜目がきかないはずはない。九鬼はその瞳から、何かを自分に問うている。それは分かるけれど、感情に機敏ではない何を訴えたいのかまでは理解することはできなかった。夜遅くここにいるのではない。まだ日の明るいうちから九鬼はここにいた。湖ですることはなんだろう? その答えはひとつしかない。山姥切だって良くしている。身体を清めることだ。では、なぜ九鬼はあんなに長い時間水浴びをしていたのだろう? 九鬼が穢されたからだ。

「するに決まっているだろう。だってお前は……」

 お前は、いったい、俺にとってどういう存在だろう?
 答えに詰まったことが、九鬼を大きく傷つけた。九鬼は山姥切に惹かれていた。だから自分がこんな目にあったとき、一番に優しくして欲しかった。「王丹のばかっ」と大きく叫んで九鬼は城の方へ走り出した。思わず追いかけようとしたところで――後ろの湖から、声が聞こえることに気付いてしまった。

「山姥切、山姥切国広、聞こえるかっ!?」
「あ、るじ……」

 久方ぶりに聞く主の懐かしい声が、やけに切羽詰っているのに、山姥切は嫌な予感を覚えた。