山姥切に割り当てられた部屋は、奇しくも本丸で堀川派が使っている部屋だった。あの時の流れない本丸の変わりない日常だと錯覚し、目を覚ましたとき、隣にいない兄弟に狼狽えてしまったのだ。

(今日は……城の案内と仕事の紹介、か)

 いつもの習慣で布を探す。昨日九鬼に取り上げられていたことを思い出して、一刻も早く返して貰おうと決意した。一緒に渡来してきた仲間が(そんなものはいないのだが)迎えに来るまで住み込みで働くという約束を取り付けたものの、ここでの主な仕事は製鉄――たたらである。幾晩も寝ずに、火を絶やさず共同作業で行う仕事に、いくら力があって寝ずに作業できると言ってもなにも知らない山姥切が加われば迷惑をかけるに決まっている。そのため、基本の仕事を覚えるための期間なのである。

「王丹、準備できた」
「ああ」
「あれっ、もう朝餉も食べたの」
「ああ」

 九鬼が外から声をかける。他人との距離感が近く、人懐こいから勘違いしていたがいきなり入ってくるほど不躾な娘ではないらしい。昨日よりは動きやすそうな着物に着替えてはいたがやっぱり今日も鉢巻きを巻いていた。

「よく眠れた?」
「問題ない」
「そっか良かった。うちって夜中やかましいでしょう? 慣れないうちは大変かなって心配していたの」

 たたらは先ほど言ったように共同作業である。だからお互いが息を合わせるために、独特の節のついた歌のような掛け声がある。きっとそのことを言っているのだろう。たたらで作る鉄は少量だけれど質のいいものだ。優れた日本刀を作ろうとしたならば、この技法で作られた鉄が必要不可欠になってくる。だからだろうか、まだこの時代に自分の礎となった鉄は存在していないはずなのに、懐かしさを感じたのだ。あるのかないのかわからない遺伝子に刻まれた感情が、山姥切国広に訴えかけてくる。火の記憶。爆ぜる音。熱。生まれるための胎動。どろどろとした物の中から自分が形作られていく感覚。言葉にできない愛おしい感覚。神でも妖怪でも、人間ですらない俺たちの唯一の還る場所。乳児が母の鼓動に安堵を覚えるように、山姥切もまた、奇妙な掛け声に安心感を覚えたのだった。



 結局、たたらの仕事は無理だと判断された山姥切は、火を燃やすための薪を集める仕事を任された。ついでに危険な野生動物の排除と、食料の用意もできるならば、とのことだった。審神者との通信は鏡を通して行う。以前審神者に古代の祭儀が云々、難しいことを説明されたけれどよくわからなかった。とりあえず顔が映ればいいらしいので近場に鏡がなければ水面などでも代用出来るから、日中自由にできるこの仕事は有難かった。

(まずは泉と逃走経路の把握、か)

 緊急時のお守りがあるのでそんなものは覚えなくてもいいのだが、念のために。
 彼の中で鬼ノ城の人々は鬼ではないとの方に傾いているのだが、鉢巻きの下の懸念が捨てきれないのでそれを見届けるまでを期限に留まろうと考えている。九鬼は気のいい娘だったから頼めば見せてくれるだろうし、力は山姥切の方が上だ。力尽くで鉢巻きの下を見て、気まずい関係になってしまってもすぐ帰還すれば事は済む。けれど、なんとなくまだ本丸に帰りたくなかった。本丸の連中は気のいい奴らだが、だからこそ自分だけ写しであることが気にかかるのだ。実在してない虚構の刀や、現代では姿さえ残ってない刀に比べたら悩みはたいしたことないのだろう。そうは言っても納得はできない。自分とは何なのか。アイデンティティの確立に悩む姿はまるでヒトのようだった。

「王丹、お疲れ様。お昼持ってきたよ」
「九鬼」
「はい、口に合うといいけど」
「すまないが……食えない。それに先ほど自分で自分の食事を用意した」
「えっ」

 目が大きく見開かれる。好意から行ってくれたことだというのに、申し訳ない。彼らが鬼だったとしたら、鬼の気で身体が穢れてしまうかもしれない。そうしたらあの本丸に帰れなくなってしまうことも最悪、ある。どんなに長時間の遠征の時だってその時代の食べ物を食すことをしないのは、黄泉戸喫で、その時代に身体が馴染んでしまうのを避けるためだった。自分とは何か、に悩んでいても山姥切国広の帰る場所は本丸だ。まだ鉄くずに――たたらの、熱の中に還りたいとは思っていない。

「信仰している、神の関係で食えないものが多いんだ。わざわざ作ってくれたものを残すのも悪いし、手間をかけさせるのも心が痛む。寝床と風呂を提供してくれているだけで十分だ」

 信仰している神の話は、以前に審神者に聞いたことがあった。この時代でも存在するのかは知らないが、交流もあまりなさそうだし、煙にまけるだろう。それに、先ほど述べた言葉も嘘ではないのだ。睡眠で気を休める。水で穢れを落とす。それだけのことができたら、遠く離れていても山姥切は山姥切自身でいられる。感謝してもしきれないくらいだった。

「そっ……か。なら仕方ないね」
「すまない」
「ううん、確認しなかった私も悪いの。気にしないで」

 落ち込んでしまった様子の九鬼は、持ってきた食事を隣で取り始めた。罪悪感からか、休憩の代わりなのか、九鬼の隣で山姥切は黙っている。しばらくの気まずい沈黙のあと、口を開いたのは彼だった。

「見ず知らずの俺にずいぶん優しくしてくれるのは、何故だ?」
「優しいかなあ」
「普通は、余所者を警戒するだろう」
「ううん、だって王丹は悪い人に見えなかったし、仲良くしてもらえないのは悲しいもの……」

 山の麓を見下ろして、九鬼は寂しげに呟いた。芯から優しい人間のようだった。冷たくされたのならば――自分に対する村人のあの反応なら、もっと憎んだりしてもいいのに彼女はそれをしない。審神者といい、九鬼といい、なぜ俺の周りは優しい人ばかりなのだろう。そうしてなぜ優しい人間ばかり、心を痛めなくてはならないのだろう……。
 そうか、とだけ返して。九鬼が昼餉を食べ終えるまで、二人は並んで座っていたのだった。