まるでおままごとをするときみたいな不自然なぎこちなさでマグカップを渡されました。差し出されたマグカップは触れると指先からじんわり熱さが染みてきて、なんとも私の好みでありました。紅茶であれ珈琲であれなんであれ、火傷しそうなくらい熱い飲み物を、ふうふう息を吹きかけながら飲むのが私の飲み方です。 「まったく、なんで猫舌の癖にんな面倒くさい飲み方をするんだよ」 私を助けてくれた少年が言うには、私は猫舌だそうです。猫舌、らしいけれど私は猫舌がなんなのか知らないのです。そして猫舌だけじゃなく、私はものをよく知りません。それはあの大きなお城(目の前の彼はNの城と呼びます。成る程あの城の王の様に扱われていた兄ですから、その呼称はぴったりだと思いました)の小さな部屋で育ったからだと初めてあった人たちが教えてくださいました。 「はぁ、面倒くさい。はやくお前の兄さんが捕まれば良いのにな」 「貴方は、面倒くさいと云う言葉が、好きなのですか」 「……お前って馬鹿だな」 彼の眉間に皺が刻まれました。とても怖い顔ですが、彼と出逢ってからもう三十七回目もこの表情をされているので、徐々に慣れつつありました。私は馬鹿ではありますが、何故か数字にはめっぽう強いのでこの数字はたぶん間違っていないと思われます。 「はい。兄と比べると」 「あいつも、天才だけど、馬鹿だよ」 「そう、なのですか」 私は少し不思議に思いました。勉強でも音楽でもポケモンでも兄はあの城の中で一番でしたから。それに勉強の出来る人を馬鹿と云うのはどうなのかしら。馬鹿には違う意味があるのかしら。 「またなんか面倒なこと考えてるだろ」 「はい?」 眉間に皺を寄せたままの顔で彼は私を見ています。そして顔をグッと近付けてきて言われました。 「Nのことを教えろ、全部だ」 そうは言われましても私が兄について言えることは兄が可哀想な人と言うことだけです。それでも良いからと彼に頼まれたので、私は訥々話始めました。ポケモンと話せる不思議な能力があったが故に幼い時分に母から引き離され、父からは虐待とも取れる厳しい教育を施されていました。ハルモニア家は名家です。兄はその嫡男として相応しい男性にならねばなりませんでしたし、更に不幸なことに兄にはその素質がありました。だからこそ、何千もの人を束ねるプラズマ団の王となったのです。 一方、私は見事なまでに愚鈍でした。何をやらせても人並み以下、けれども母に似た美しい容姿を持っていたので、何をしても叱られず蝶よ花よと育てられておりました。 「なまえ、お前には兄がいるのよ。この上なく稀有な素晴らしい才能を持った兄が」 母は死ぬ直前、そんなことを私に言い渡しました。兄。兄。兄とは何でしょう。 「わたくしと、あの人の子ども。貴女と全く同じ血の流れる唯一の人よ」 「それが、兄?」 「ええ。可哀想な子。愛情を奪われて。名前を奪われて。英雄になるために育てられているのだわ」 「それはいけないことなの?」 「いけないとは言わないわ。でも、あの子は愛情を知らない。もっともっと、わたくしが慈しんで育ててやりたかった…」 「お母様、」 母は泣いておりました。頬は痩け、眼窩は窪み、身体は醜く窶れているのに何故かその涙だけは美しかったです。 「ナチュラル…」 けれど私はその時何故母の涙を美しく感じたのかは分かりませんでした。 母が死んで父は人が変わりました。前よりも私を溺愛し、母の様に扱うのです。私は城の一番豪奢な部屋に閉じ込められ鳥籠の鳥の様に愛され愛でられました。何不自由のない贅沢な暮らしでしたが、ただ自由だけがありませんでした。 「母様?」 聞き覚えのない声が、部屋に響き渡りました。傍らに控えていたゾロアークが私を守るかの様に前へ踏み出し、ランクルスもふわりと横へ降り立ちます。二匹の隙間から見えたのは、父に良く似た萌木色の髪の青年で、 「ナチュラル?」 「やっぱり母様だ!会いたかったよ」 私の兄に違いありませんでした。年に不相応な無垢な笑顔で、何を勘違いしたのか兄は私を母と呼びました。 「どうしてそう思うの」 「そのゾロアーク、ボクのゾロアのお母さんだよ」 「ああ、そうなのですか」 「うん!ボクの名前を知っているのはゲーチスと母様しかいないし、ゲーチスの飾った肖像画にそっくりだったから」 皆ボクをNって呼ぶからね。 笑顔を張り付けてはいましたが兄の髪と同じ色をした瞳は輝きませんでした。薄暗く濁ったまま、変わらなくて、──まるで魂のない人形のように感じてゾッとしたのです。その時私は初めて母の遺した言葉の意味を知りました。兄は可哀想なのです。私より大きいのに母が何かを知らないし、名前も奪われたし、きっと父と母が私にくれた愛情を知らないのでしょう。そう思うと、急に兄がいとおしくなりました。可哀想なお兄様。お可哀想なお兄様。ならば私が貴方を愛して差し上げましょう。 「ずっと会いたかったわ、ナチュラル」 「ボクも!」 「さあ、紅茶を淹れてあげましょう。飲みながらお話をたくさんしましょう」 そうして、私は彼の母になりました。兄は度々私の部屋を訪ねてくるようになり、私の淹れた紅茶を飲みながら兄の話を聞くのが習慣になりました。兄の話は難しいですが他の方とは違った視点でいて、独創的で、天才と言われた理由がわかりました。私は兄と云う存在を宝物の様に大切に大切に扱いました。 「ナチュラル」 「なあに、母様」 「私、貴方のことが好きよ。愛してる」 「ボクも母様を愛してるよ?」 嗚呼、彼は気付いていない。無意識に私は兄を抱きすくめ、唇にキスをしました。 「……母様?」 「ごめんなさい、ごめんなさい、ナチュラル。私はお母様じゃないのです。貴方の妹のなまえです」 「なまえ?」 「そうです、そうです、お兄様。私は貴方を愛しております」 私は兄を目の前にして、みっともなくも大粒の涙を溢して泣きました。兄は暫く呆然としたあと、ふらりと部屋を出ていったきり長い間音沙汰がありませんでした。きっと、その時から私たちの母子と云う関係が、否、兄妹と云う関係も緩やかに崩壊へ向かったのです。 「……それで?」 「これで終わりですよ」 そう、本当にこれでお仕舞い。母の愛と恋愛を履き違えてしまった私は実の兄に恋をしました。そうして私のその感情を押し付け、気付いた兄に、Nに、サヨナラと告げられてしまったのです。 (お慕いしております、お兄様) けれど、嗚呼、私たちは兄妹で。母子にも、恋人にもなれぬ存在でありますから、このまま別れていた方が良いのです。話を終えて、私は少し冷めた紅茶に口をつけました。兄妹の関係がぐずぐずと腐って崩壊してしまったあの日より、紅茶が少しだけ不味く感じました。 |