黒々として重厚な前髪のカーテンに、躊躇うことなく鋏を入れる。視界を覆っていた髪はハラハラと落ちていった。あまりにも勢いよく鋏を入れたので少し、というか大幅に切りすぎてしまったかもしれない。不揃いな毛先は眉と同じ長さで、これから整えていったらどのくらいの長さになるのか考えるだけでも恐ろしい。結構長いあいだ前髪を作ることなく生活していたから、前髪がある自分というのはなかなか新鮮なものだった。鏡に映る自分は数分前の自分と寸分たがわず同じ顔をしているのにまったく雰囲気が違って、まるで生まれ変わったみたいだった。なるほど、だから人は失恋したら髪を切るのだな。生きている最中に自分を殺すことができなくとも、自分に付属していた不要なものを捨て去ることですっきりし、別人になるのだ。

「まあ、私は失恋したわけじゃないけど」

 失恋したわけではないけど、今までの自分を殺して生まれ変わりたかった点では同じかもしれない。みょうじなまえは本日生まれ変わったのだ。たぶん。



 前まで視界を隠してくれていた前髪がなくなるだけでこんなにも人前に出るのが恥ずかしくなるとは思わなかった。それから世界が随分明るい。気のせいだとはわかっているけど、なんだか道行く人みんなに見られている気がする。そう言えば、前髪を伸ばすようになったきっかけも、人と目を合わせたくないからだったなあ、と今更ながら思い出した。生活に支障が出るほど激しい人見知りではないけれど、どうしても人と目を合わせることができないのだ。じっと見つめられると自分の本心を見透かされそうで怖い。友達の趣味に合わせてドラマを見たりはするけれど自分自身執着するものはないのだ。加えて特に面白いことも言えないし、特技もないし、つまらない人間だとバレてしまいそうで怖い。だからなるべく人と目を合わさないように前髪を伸ばしたのだった。なんて回想していると学校について、友達に「失恋でもしたの?」なんて散々からかわれたあとHRを告げるチャイムが鳴ってようやく自分の席で一息つくことができた。

「あれ、みょうじさん髪切った?」
「うん。昨日」
「ずいぶんバッサリいったね! イメチェン?」
「まあそんな感じ、かな」
「前髪短いのも似合ってていいね」
「ありがとう」

 隣の席の高尾くんが声をかけてきた。ここまでわかりやすい変化だから気づくのは当たり前かもしれないけど、わざわざ声をかけてくれるところが相当ポイント高いと思う。それを抜いたとしても高尾くんはそうとう色んな事に気付く。前に私が教科書を忘れて困っている時にさり気なく教科書を貸して自分は反対隣の子に見せてもらっていたし(私は窓際の席なので高尾くんしか隣がいないのだ)、日直の時に一人で配布物を運んでいたら持ってくれたこともあった。
 高尾くんからしたかそれはきっと当たり前のことなのだろう。けれど私はとても嬉しかったのだ。それがきっかけで高尾くんのことが好きになって、少しでも彼と釣り合うような女の子になりたかったのだ。そしていつか、彼の眼差しを、まっすぐ受け止めたいと思ったのだ。今はまだ、眩しくて目が眩んでしまうけど。いつか明るさに慣れる日が来るだろう。