「あ」


そう言葉に出したのは一体どっちだっただろう。雑踏の中、俺はひとりの少女を見つけた。まるでそこにだけスポットライトが当たっているかのように自然と目がいったのだ。そして見つけた彼女の腕を反射的に掴んで引き止めていた。


「あ、あの、アンタの名前は……?」
「わたし? わたしは」
「おーい戦士。どうしたの? 何かあったの?」


彼女の言葉を遮るように勇者さんが現れた。どうして普段は敵の気配にも気づかないくせにこういう時だけ勘が鋭いんだよ。心の中で舌打ちをしながら「なんでもないです」と答える。勇者さん、今はあなたの相手をしている時間はないんだ。あとでいくらでも構ってやるから今はすっこんでろ。そんな気持ちを殺意に乗せて睨みつけると情けない声を上げて彼は固まった。もう一度振り向くと、少女は消えていた。意味がわからなかった。確かに俺は彼女の細い腕は掴んでいたというのに、振りほどかれた覚えもないのに。まるで元から存在しなかったかのように彼女は消えてしまったのだ。

(見間違い、か)

それとも白昼夢か。そんなに彼女に焦がれていた覚えはないのだけれど。現に、さっきの少女を見つけるまではまったく思い出すことはなかった。薄情かもしれないけれど、一人の女にかまけている暇なんて俺にはないのだ。


「戦士?」
「あーはいはいアバラを殴って欲しかったんですっけ? もーそんなに虐めて欲しいんですかほんっと勇者さんはドMなんですから」
「違うよ!?!?」


打てば鳴る鐘のように、俺にあてがわれた勇者さんはポンポン口から言葉が飛び出していく。こう見えて(暴言以外は)口が達者な方ではないから、実は勇者さんが羨ましかったりもする。どうしたらそんなに素直に人を賞賛する言葉が出てくるのだろう。誰も傷つけない言葉出てくるのだろう。思ったことを素直に口に出すの、怖くないですか?
心がささくれだっていたクレアシオン時代のことを思い出す。あの頃、俺は、ほとんど言葉を喋らなかった。泣き言、怨嗟、呪詛。なんでどうして、疑問。そんなものばかり吐き出してしまいそうだったから。そして一度口に出してしまえば、感情が風化してしまいそうだったから。それだけは絶対にしてはいけないことだったんだ。どんなに辛くても悲しくても、この思いだけは絶対に褪せさせてしまったらいけない。憎たらしいほど愛していたあいつの罪は俺が背負わなくては。ほかの誰にもわけてやんない。だってあれは俺の、たった一つ、唯一の家族であったから。不意にさみしい気分になった。誰かに抱きしめて欲しいようなそんな気持ち。幼い子供みたいに誰かの体温が欲しいな、と思う。けれどそんなことを口にするのは憚られたので宿屋の、隣に俺にあてがわれた勇者さんがいる部屋で、暖かい毛布にくるまれて夢の世界へと落ちていった。



(また、いる)

雑踏の中に思い出の少女がいる。どの街へ行っても絶対にいる。彼女から話しかけてくることは絶対にない。けれどいつも俺を見つめている。その、縋るような視線に俺はいつも彼女の存在を意識してしまうのだ。もう彼女が生きているはずはないのに、見えてしまうのは俺が忘れられないからだろうか。だって彼女は千年前の旅の途中に一瞬だけすれ違っただけの存在だ。俺のことを特別視するはずもないし、俺だって特別に思うはずもなかった。森の中で行き倒れていた俺を介抱してくれた彼女。最初は警戒していたけど怪我が治るまでの三日間、まるで家族みたいに接してくれたのがとても嬉しかったのだ。けれども名前だって、もう忘れてしまって。つまり思い出すことすらできない程度の関係性だったのだ。
彼女の存在を意識するとどうにも気になってしまった。目を離さないからか今回はなかなか消えなかった。雑踏をかき分けて彼女のそばに寄る。にっこりと笑ってくれたその笑顔は「おはよう」って声をかけてくれたときと同じままであった。


「なんでアンタがここにいるんですか。魔族ではなかったはずです。もう死んでいるはずでしょう」
「さあ、なんでここにいるんだと思う?」
「死んだなら、さっさとあっちに行ってくださいよ。いつまでもこっちにいてはいけませんよ。生まれ変わることすらできない」
「クレアシオンくんは案外ロマンチストなんだね。生まれ変わりとか信じてるんだ」
「殴りますよ」
「殴れないよ」
「俺は女にだってやるときにはやります」
「そういう意味じゃなくって」


じゃあどう言う意味なんですか、という言葉は呑み込まれた。
そんなのわかりきっているじゃないか。彼女は千年前の人間なんだぞ。


「あー気を遣わせちゃって、ごめんね。でもわたしは君が元気そうで安心したよ。いい友達もできたね」
「……友達なんかじゃ、ありません」
「友達だよぉ。君と対等な存在だし。何より一緒にいて楽しそう。わたしは一緒にいてあげることができなかったから」
「ただの通りすがりのあなたがそこまで気遣う必要もないでしょう」
「それはそうなんだけどさ、クレアシオンくん、弟みたいに思ってたから」
「たった三日しか一緒にいなかったのに?」
「三日でも、大きかったよ。森の中で一人暮らしだったから嬉しかったもん」
「そうですか」
「そうでーす」


おどけたポーズをとって彼女は笑ってみせた。その腑抜けた笑顔が勇者さんと重なる。なんで俺は間抜け面のやつとこんなに縁があるんだろうな。


「君が元気みたいで安心しました。だからもうわたしは消えることにします」
「いきなりだな」
「えへへ。久しぶりに言葉を交わすことが出来て嬉しかったよ。それじゃあ」


ひらひらと友達にするみたいに、気軽な別れの言葉を告げて彼女は雑踏に紛れて消えてしまった。待って、とも、他にも言いたかった言葉はあるはずなのにどれも口にはできなかった。中途半端に手を伸ばしたままの状態で、呆然と立ち尽くしたまま通行の流れを邪魔していた。本当に、なんで彼女は現れたのだろう。というか、本当に彼女はいたのだろうか。俺の見た白昼夢かなにかではなかったのだろうか。夢なのか現実なのか、もう判断はつかなかった。


「戦士、何してるの」
「……」


呼ばれて振り向くと、間抜け面がそこにあった。ついさっき見てみたものも同じように気の抜けた顔をしていた。なんだかその顔を見ると安心してしまう自分もいた。


「別に。ちょっと幽霊とお話していたんです」
「え……戦士ってそっちの人だったの」
「なんで哀れむような顔するんですか。殴りますよ」


間髪入れずにアバラをめがけて一撃を入れる。
あれは、きっと幽霊だったのだ。負の感情にずっと晒され続けた千年前の旅の中の唯一の温かい思い出。自分の中でそれは思ったより大切に思っていたのだろう。だから夢を見たのだ。でも今の自分にはそんな悲しいことばかりではないから、その思い出にすがらなくても生きていけるよ。さよなら俺の生み出した亡霊。一瞬だけど愛してくれてありがとう。もし生まれ変わったら、あなたの弟に生まれてきたい。