僕たちはいずれ結婚する。けれども僕は彼女のことを大好きなわけではないし、彼女も僕のことを愛しているわけではないことを覚えておいて欲しい。これだけで僕らの特異性がわかってもらえるだろう。そして現時点で僕らは恋人同士である。それも、政略結婚ではなく自由恋愛の末に。 「おい、携帯鳴ってるぞ」 「知ってます」 「なんだよ、親切心で教えてやったんだろ。お前がぼーっとしてるから」 「それはご丁寧にありがとうございます」 そう言ってお節介焼きな相方のおじさんが教えてくれるけれど、気づかないわけではなく、単に出たくなかっただけなのだ。現実から目を背けるように電話帳に登録もされてないその番号は、けれども確かに見覚えはあった。あの手この手で入手してきたファンからではなく、僕が自ら教えた人からのものだ。あの日から二ヶ月、かかってくるならそろそろだと思った。そしてかかって来たということは、僕は責任を取らねばならないのだ。すぐになりやんだ携帯を握りしめ、ゆるくため息をついてから席を立った。 「先程はすいません。少したてこんでいて」 『いえ、構いません。バーナビーさんが多忙なのは存じておりますし』 「それで電話をかけてきたということは」 『はい、陽性でした』 「そうですか……」 『もし、バーナビーさんがお嫌でしたら、わたくしが一人で育てますけれど……』 「そう言うわけにはいかないでしょう。その子は僕の子でもあるのに」 『ですが、他に良い方がいらっしゃるのでは? 家にお金はありますし、わたくしのことならお気になさらずどうか』 「いいんです。それにあなたも立場がおありでしょう? 最悪、勘当なんてことになりかねませんよ」 『それは……』 僕と結婚できるチャンスだというのになまえさんはがっつくこともなく、更には嫌ならいいのですよと逃げ道を用意してくれる。彼女はこのシュテルンビルドには珍しい日系人であり、それなりに大きい企業の社長令嬢である。深窓の令嬢という言葉がふさわしい彼女の家は、やはりかなり厳しいらしい。父なし子なんて産んだらきっとひどい目に遭ってしまう。それに一人娘のなまえさんは婿養子を娶らなければならない立場である。彼女の一家にも迷惑をかけてしまう。なにより、幸せにならない家族が僕のせいで生まれることは許せなかった。 「いいんです。責任を取ります。どうか僕と結婚してください」 『バーナビーさん』 「きっかけはこんなものだし、僕は、小さい頃に両親を亡くしたから愛って何か、家族って何か、わからないけれど。それでも精一杯大切にさせていただきますから」 『はい、こちらこそ、不束者ですがどうぞよろしくお願いします』 電話口で、なまえさんがクスッと笑う声が聞こえた。同じ日系でも、僕のパートナーとは違う控えめな笑い声だ。男女の差がそうさせるのか、僕のパートナーががさつなだけなのかはわからないけれど。幸い、彼女のことは嫌いではない。むしろ数回しかあったことのない割には好ましく思っている。さてこの重大発表を上司にどう伝えるべきか。付き合っていることすら言わなかったのに、いきなり子供ができたと知ったら、あの人たちどんな顔するかなあ。 「お待たせしちゃいました?」 「いいえ。お忙しいのにお時間作っていただいて申し訳ありません」 仕事の後に待ち合わせて彼女の実家へ向かった。白いワンピース姿の彼女はとても清楚に見えて、やっぱりお嬢様なんだなあと痛感した。これから僕が行うのは所謂、ご両親へのご挨拶ってやつだ。僕の両親はいないから、あちらに認めてさえ貰えれば僕たちは晴れて夫婦となる。ロイズさんも、驚いてはいたけれど、すぐには公表はできないけれど、という条件付きで認めてくれた。虎徹さんは呆然としていた。まったく予想通りの面白い顔だった。 「君のご両親になんて言おう」 「すいません……」 「だから、謝らなくていいんです」 確か、日系の人はすぐ謝る性質があるんだったような。そのせいで彼女はこんなにすぐ詫びの言葉を言うのだろうか。僕はそんな言葉よりもっと別のことが聞きたいな、と思う。僕らはお互いのことを知らないから昔のこと。そしてこれから始まるであろう未来のこと。それから、それから。聞きたいことはいっぱいあるし知りたいこともたくさんある。少し前までは自分ことでいっぱいいっぱいだったから他人のことなんて興味が全くなかった。なのに今はこんなにも知りたいと思えるんだから、不思議。この年になってやっと中身も成長できたのかな。そうならばこれはきっと僕のパートナーのおかげだろう。僕より随分と低い位置にある彼女の横顔を見つめながら、なんの話をしようかと考える。幸いにして時間はたっぷりあるからこれからいくらでも知っていくことができるだろう。だって僕らはこれから家族になるのだ。 「バニーちゃんどうしたのその顔」 「結婚相手の父親に一発」 「ひっでえなあ」 「まあ箱入り娘がデキ婚ですからね」 「お前のがひどかったわ」 それは重々承知しています。虎徹さんに「なんでそんなことになったの」という心配半分興味半分の口調で問いを投げかけられた。まあ、彼には隠し事はしておきたくないので、どこから話したものかと考えながら言葉を紡ぐ。 「こないだ、と言っても数ヶ月前ですけど。虎徹さんが僕の誘いを断った日があったじゃないですか」 「えー? いつ?」 「銀行爆破テロがあった日」 「あーあれ。スカイハイが大変な目にあった」 「それです。その日、僕、すっっっっっごい人恋しかったんですよね。でも娘さんとの予定なら仕方ないし、でも家に帰りたくないし、言いたくないけど他に友だちいないし……で、一人で飲んでたんです。普段の僕では考えられないペースでした」 「それで酔った勢いで、ってこと? サイテー」 「まあ平たく言えばそうなんですけど、」 そうなんですけど。弁解なんて全く出来やしないのですけれど。夜の街には不似合いな女の子が現れて、そのくせ未成年に間違われて追い出されかけるし。助けてあげたら家に帰りたくないなんてグスグス泣くし。帰る家があるのになんて贅沢なんだと怒りを覚えたのと同時に僕と同じ夜のまいごがいるなあって親近感を持ったんです。彼女を酔わせて家に連れ込んで、それから少しだけ、話をしました。彼女の言葉は僕の胸の空洞に入ってきて、その気持ちが痛いほどわかるから苦しくなって、それから慰めてあげたくなったんです。でも僕は、愛を知らないから、愛し方を知らないから間違えてしまった。それだけのことなんです。と、虎徹さんに言おうとしてやめた。この感情は、まだ、自分だけのモノにしておきたい。愛だなんて安っぽい名前をつけて昇華したくない。これはもっと別なものだって信じているから。 「けど?」 「いや、弁解の余地はないので言い逃れはやめます。でもね、本当にね、今は僕彼女のこと……」 「そうかあ」 形はどうであれ、バニーちゃんが幸せならいいよ。相手のことを幸せにしてやってな、という虎徹さんの言葉に僕は大きく頷いた。 「ずいぶん大きくなってきましたね」 「そうですね」 「そろそろ、ですか?」 「ええ。こんなに動いていますもの」 お義父さんに殴られて、名前は伏せたけれど結婚発表をして、籍を入れて僕らは夫婦になった。それでも相変わらず敬語のままだし、お互いに名前はさん付けだし、きっとこの子がいなかったら夫婦にならなかったんだろうな、と思う。自由恋愛の末結婚したのにそこには愛はないのだ。ないのだ。「触ってみます?」と膨らんだお腹をさすなまえさんに僕はかぶりを振って応じた。彼女は小さく「そうですか」と言った。少し残念そう、にみえなくもない。 「いきなりなんですけどね、バーナビーさんのこと、ゲイだと思ってたんです」 「……本当にいきなりですね」 「すいません……わたくし実はバーナビーさんのファンで雑誌とかいろいろ追いかけていたんです。でも魅力的な女性とたくさん接することが多いのにバーナビーさんが手放しで褒めてるのって相方のタイガーさんだけなんですよね。浮いた話がないのもそのせいかなって思ってたんです」 「まあ、それはよく言われることなので慣れていますけど」 「やっぱり言われてるのですか」 「ええ。でも誓って僕とタイガーさんはそんな仲ではありませんよ。父親であり親友であり相棒であり、彼は僕の全てであるので、特別なので、自分でも好きなのかなって疑ったことはありましたけど」 「そうなのですか」 「でもたぶん、違うんだろうなって思いました」 なくなった両親から、愛されていた記憶は、ある。育ての親からも愛されていたような気もする。でも記憶をいじられていたせいで何が何だかわからなくなってしまったのだ。どれが本当でどれが偽物なのか。つまり僕は愛ってなんだかわからない。両親が幼い頃にいなくなってしまったから、幸せな家族を作るのが夢だったりするけれど、うまくできる自信はなかった。 「僕は愛ってなんだかわからないんですよ」 「バーナビーさんはわたくしのことどう思っています?」 「夜のまいご……」 「?」 「すいませんうまく言えなくて。なんだろう、寂しい気持ちを抱えてるひと、みたいな」 「あの日も、わたくしはあなたにそう見えていたのですか?」 「はい」 裕福な身なりで満たされている人。けれども泣きそうな笑顔しか浮かべられない人。腹が膨れたって綺麗な服を着ていたってそんなのは関係がないんだ。心の隙間を埋める人、寄る辺のない人が、夜のまいご。隙間を埋めるために彷徨うのだ。僕は、彼女の隙間を感じ取ってそうして埋めてあげたいと、思ったのだ。 「だからわたくしに手を差し伸べてくれたのですか?」 「はい。隙間を埋めてあげたいって、思ったから」 「大丈夫です。バーナビーさんは、愛し方をきちんとわかっています」 「でも僕は……」 「あの夜、あなたはわたくしに何をしてくださいました?」 「あなたに、触れました」 「それが答えですよ」 |