まだあなた方がうんとうんと幼い頃、ありもしない妄想に取りつかれて、訳もなく怯えていたことはありませんか。わたしにはあります。小さなわたしは人一倍臆病で、自分ひとりにだけ恐ろしい妄想を深刻な顔をして語っては、周りの人に笑われておりました。成長した今思えば子どもの他愛のない戯れ言だなあ、とも思うのですが、どうにも忘れられない感覚があるのです。水族館と言えばポケモンを囲んでいる巨大なガラスの水槽。もし、あのガラスが割れたら。きっとわたしは水中に溺れてしまうし、水槽から逃げ出したポケモンに襲われてしまうかもしれない。ギラギラ輝く鋭い歯を持つサメハダーに襲われたら一発だし、可愛いからってわたしを傷付けないとか限らない。そんな話を聞いたことはないけど、もし……とわたしは一般的には"ない"と言われている可能性に怯えて、雨の中濡れそぼった子犬のごとく一人で震えるのです。だって、あの恐怖が未だに、わたしの記憶に鮮烈に刻まれているのですから。

前置きが長くなってしまいましたが、何故わたしが今さらこんな話をしたかと云うと、幼なじみの──なんて、気恥ずかしくて誤魔化してしまいましたが、実は恋人の──ヒュウに手を引かれマリンチューブへ遊びに来たからです。最近できたばかりの人気スポットですし、わたしがみずポケモンを好きなことを知って連れてきてくれたのでしょう。それは解っているのですがマリンチューブは海底トンネルで、水中のポケモンが見れることを売りにしています。平たく言えば、と言うか包み隠さず言えば、怖いです。

「どうした、なまえ」
「ひ、ヒュウ」

真っ青な顔をして動かないわたしをヒュウが気遣ってくれます。どうした、気分が悪いのか。と背中に手を回しマリンチューブへ入る前のベンチまで引き返しました。

「ほら」
「ありがとう」

差し出されたおいしいみずを飲んでほっと人心地。今、甘ったるいミックスオレなんて差し出されたら余計に気分が悪くなってしまうでしょう。こう言う細かい気配りのできるヒュウのことを、わたしは好きだなあと思うのです。

「だいぶ顔色よくなったな。いきなりどうしたんだよ?」
「あ……その。マリンチューブはガラス張りで外が見えるから怖くなって」
「そんなに心配しなくても割れたりしないぜ?」
「わかってる、ん、だけど」

 もっと大変なことかと思って心配したぜ、とカラカラ笑うヒュウに複雑な感情を覚えました。なかなか人には解って貰えないんですよね、この感覚。

「ヒュウは悪い想像、したことありません?」
「悪い想像ってなんだ」
「高いところにいるときに手すりが取れたら、とか」
「水槽のガラスが割れたり、とかか?」
「もうっ。からかわないでください」
「ははっ。わりぃわりぃ」

 きっと皆も一度は想像したことがあるだろうに、なんで覚えていないんでしょう。成長してたくさん経験を積んで"ない"と脳が認識しただけなのに。遺伝子学で言えば慣れ、でしょうか。平和に感覚が麻痺しているだけです。でも、きっとヒュウみたいな何でも出来て恐れを知らないヒーローみたいな人には解らないんだろうなあ、と諦めに似た気持ちを抱きました。

「うーん。なまえ、なんかいろいろ難しいこと考えてるみたいだけど」
「難しい、ですかね」
「なまえは昔っから考えすぎなんだよ。俺が理由教えてやろうか?」
「え、え、わかるの……?」
「たぶんだけどな」

 たぶん、とか言う割りに自信満々の彼。年頃の少年に有りがちなように、自尊心を満たすため、人に頼られたり注目して貰えたりするのが好きなんですよね。

「さすがヒュウ! 教えてください。聞きたいです!」
「なまえ、お前泳げないだろ」
「え、それ、わたしヒュウに教えてましたっけ?」
「いや。俺の勝手な推測。なまえが水槽にそんな恐怖を覚えるのは泳げないからもしそんなことがあって溺れたらどうしようって考えるからで。みずポケモンが好きなのは泳ぎたいって憧れがあるからじゃねーの」
「な、なるほど」

自分では気付きませんでしたが、言われてみればその通りかもしれません。確かにわたしは泳げないので、水槽が割れて溺れることに恐怖を感じていたように思います。と言うことは。

「泳げるようになればトラウマ克服……?」
「かもなー。泳ぎの特訓してやろうか? ちょうどセイガイハにいるんだし」
「いいんですか!」
「ああ、もちろんだ」
「ありがとうございます、ヒュウ」
「なまえの水着姿楽しみだなッ」
「あ、そうか水着……!」
「きっと可愛いんだろうな」

 ちょっと間違えればセクハラ発言を、どこまでも裏のない爽やかな笑顔で言うので照れてしまいました。と言うか、わたしから言えば、ヒュウの水着姿が楽しみです、よ。