きっと今夜は、雨 | ナノ






 それは晴れた日のことだった。私はトーマスとミハエルに見守られながら木登りをしていた。太い木の枝をしっかりと掴んで、自分の体を持ち上げる。ちくちくとした樹皮が手のひらを刺激した。両方の足の裏は幹にぴったりとくっつけて、滑らないように注意を払う。下から聞こえるのは弟たちの応援の声。慎重に慎重に体を運ぶ。目指すは頭上の太い枝。細い枝や葉っぱに包み込まれるように引っかかっているのはサッカーボールだ。トーマスが強く蹴り上げたものがこの木に吸い込まれてしまった。『姉さま、取ってよ。お願い』と眉を下げて言われたら断るなんて出来ない。よし、よし、もうすぐ届く!手を伸ばしてボールを払うと重力に従って地面へと落ちていった。
『うわあ!すごい!』
 そう言ったのはミハエルだ。
『ありがとう!姉さま!』
 トーマスの声も聞こえた。
 その言葉を聞ければ満足だ。私は登ってきた時とは逆に地面へ向かって体を滑らせていく。少し高めの場所から幹を蹴って着地すると、2人がぱちぱちと拍手をしてくれた。
『かっこいい!』
 そうトーマスが言ってくれたのが嬉しくて私は胸を張った。柔らかい日差しを浴びながら、2人の弟は朗らかに笑う。ぽんぽんと2人の頭を撫でて、サッカーの続きをしようとトーマスの足下にあるボールを拾い上げた。
『あっ、姉さま。クリス兄さまがこっちにくるよ』
 ミハエルの言葉に振り返ると、クリスがこちらに向かって走ってきた。肩に垂らした三つ編みが少しほつれている。片手には茶色い表紙の本。天気が良いから外で読んでいたのだろう。その後ろからはお父さんが歩いてくる。
『何してるんですか、姉さん』
『ん?何って、木に登った。サッカーボールが引っかかったから』
 ただそれだけなのに、何が気に入らないのかクリスはムッとした表情になる。
『危険です。落ちて怪我でもしたら、大変なことになっていたかもしれないんですよ』
『怪我はしなかったんだから良いでしょ』
『そういう問題じゃありません。弟たちが真似したらどうするんですか』
『真似しないように私がやったんだよ』
 晴れやかな気持ちに曇りが差してきた。クリスはいつも私のやることに口を出す。あれは危ない、これは駄目だ。そのお説教の終着点は、私が女らしくない、淑女としての慎みを身につけるべき、という所に落ち着く。何やかんやと言って結局それが言いたいんだろう。毎日のように睨み合って口論して、それでも弟たちにはにこにこするのだ、この男は。トーマスもミハエルも目の前の口論にオロオロして、この場を収めてくれる救世主を待っていた。
『やめなさい、クリス、マリア』
 低く柔らかな声が優しく頭上から降ってきた。見上げればお父さんがその声の通り、優しく微笑んでいた。
『父さま、聞いてください!姉さんがまた危険な真似を――』
『また?またって、なに?アンタそんなに私に文句言いたいの!?』
『文句もなにもしょっちゅう危ないことをしているじゃないですか。少しは自覚してください』
『あーもう、うっさい!だから、私は木に引っかかったボール取っただけだって言ってんじゃん!』
『姉さんはお転婆すぎます』
『クリスは細かい所がしつこすぎる!』
 ぽんっ、と肩に手が乗せられる。私たちの口論はそこで途切れた。クリスが顔をしかめたまま私を見たので頬を膨らませて応戦した。
『ほら、弟たちが驚いているよ』
 お父さんは私たちをなだめるように言って、やっぱり笑顔は崩れない。イライラとした感情が一気に萎んでいく。私はお父さんの微笑みにも優しい声にも弱い。それはクリスも一緒のようで、変なところで姉弟なのだと思わずにはいられなかった。

 その日の夜だ。リビングにいるのは私とお父さんだけ。私は靴を脱いでソファに胡座をかいて座った。ローテーブルには紅茶のセットが置いてある。お父さんが紅茶をカップに注ぐ、その光景を眺めながら口を開いた。
『私ってさ、やっぱ今のままじゃ駄目かな』
 思ったよりも落ち込んだような声になってしまった。2人きりの時にしか言えないことだろうと、思い切って聞いてみた。
『なぜそう思うんだい?』
 お父さんは目を丸くしていた。
『だって、私はお転婆すぎるってクリスが言ってたから』
 クリスは頭が良い。賢くて、私よりも大人だ。私に足りない物をよく分かっている。お転婆だという自覚はあった。制服のスカートは動きづらくて嫌いだし、服が汚れることは気にならない。髪を整えることも化粧をして綺麗に着飾ることも興味が無い。女らしくないことも理解している。クリスと言い争うたびに私は常に図星をつかれてイライラするんだ。
『そうだね……』
 紅茶のカップを口に運びながらお父さんは琥珀色の目を細めた。
『マリアがお転婆に育ってくれたおかげでトーマスやミハエルが元気に遊んでくれるから助かっているよ。クリスだけだったら、部屋で読書ばかりだっただろう』
『え、うん。そうかも知れないけど……』
『けれどね、お父さんもマリアには立派なレディになってほしいとは思っているんだ。もちろん、今すぐなんて言わないよ』
『私が、その、立派なレディ……になったら、嬉しい?』
 お母さんが死んでから、頼れるのはお父さんだけになってしまった。だからだろうか。この人を喜ばせたい。役に立ちたい。褒められたい。その思いが一層強い気がする。
『ああ、嬉しいよ』
 私は、私たちは、お父さんのためなら何だって出来る気がした。


「それでは姉さん、朝食ここに置きます」
 カタンと何かが置かれる音がした。その音で意識が闇の奥底から引き上げられる。それは在りし日の幸せだった世界。もっと見ていたかった。もっと其処に居たかった。それなのに私の体は勝手に外の光を受け入れてしまった。目を開けると、外の景色が見えた。壁が一面ガラス張りになっているようだ。頭を乗せている白くふかふかの枕は洗剤の香りがする。体を包むように被せられているブランケットは温かい。私は声の主に背を向けてベッドに横たわっていた。窓から見える景色は見覚えがない。外にある建物が地面と同化しいているかのように低く、空が異様に近い気がした。私の部屋は2階だからこんなふうに景色が見えるはずはない。そうして私は思い出す。そうだ、ここは、私の家じゃないんだ。
「今日の夕食は少し遅くなるかもしれません。カイトとのデュエルに付き合うと約束しているので。昼食はいつも通りに持って来られるとは思います」
 声は聞きなれた弟のものだった。淡々としていてレポートの読み上げでもしているみたい。
「それでは姉さん、行ってきます」
 朝の挨拶を終えたクリスはそのまま部屋を出て行ってしまったようだ。扉の開閉音だけが虚しく響く。喋るもののいなくなった空間は時間が止まったように静まり返った。


 現実と夢との境界が曖昧になったのはいつからだったか、よく思い出せない。
 この研究所に来てから?弟と引き離されてから?お父さんが居なくなってから?それとももっとずっと前から?


 私はいつの間にか部屋を抜け出していた。気づけば無機質な廊下をひたひたと歩いていた。足の裏に床の冷たさが伝わる。体温がどんどん奪われて、肌寒いような気もするけれど、そんなことはどうでも良い。
 目を、覚ましたくなかった。私が見る夢は在りし日の家族との記憶。つらいことも、嫌なこともあった。それ以上に楽しいこと、嬉しいことも溢れていた。ぬるま湯のような世界にずっと浸っていたかったのに、どうしてだろう。温かい幻想から追い出されてしまった。お父さんが居なくなったこと。弟たちと離れ離れになったこと。失ったものの大きさに耐え切れなくて現実から目を背けて心を守ったはずなのに。それなのに、もうどこにも逃げる場所などなくなってしまった。

 やけに肌寒いと思っていたら、私はどうやら建物の外に出ていたようだった。舗装された道はいくつかの区画に分かれていて、それを埋めるように花が植えられている。青、黄色、赤……色とりどりの花は楽しそうで、胸がざわつく。この世界で私一人だけが悲しい出来事を抱えているみたい。けれど、たくさんある花壇の中で目立たない一角にそれはあった。なにも植えられていない、寂しい場所が。
 私は、傷ついた動物に近づくみたいに、一歩一歩、歩みを進めた。足の裏をざりざりとした感触げ撫でていく。声なき声に導かれるままに寂れた花壇の前しゃがみこんだ。周りはあんなに色づいているのに、この隅っこにひっそりと佇む花壇だけが色を失っている。まるで今の私みたい。

「姉さん!」
 背中に聞きなれた声が刺さった。バタバタと足音が荒く近づいてくる。それは私の背後でピタリと止んで、入れ替わるように乱れた呼吸音が聞こえた。
「姉さん、良かった……ここに、いた」
 ゆっくりと首だけを声の方に向ける。思った通り、私に残された家族の姿。クリスが肩で息をしながら私を見つめていた。白衣ははだけているし、肩から垂らした髪もほつれている。ここにいた、と言うことは私を探していたのかもしれない。どれだけ私を探していたのだろう。なぜ、探しに来たのだろう。
「どうして、わざわざ探しに来たの?」
 頭の中に浮かんだ疑問をそのまま口にした。彼は何を思って私に話しかけているんだろう。クリスと私は気が合わず喧嘩も絶えなくて、私のことなんて嫌っているはずなのに。
 クリスは唇をキュッと引き結ぶと、
「怖かったから、ですよ」
引きしぼるように告げた。
「怖かった?」
「そうですよ。貴女まで失うんじゃないかと思って怖かったんです!」
 白い手がキツく握り締められ、ますます白く染まっていく。
「わたしを失う?」
ますます意味が分からなくて、小さい子どもみたいに言われたことを繰り返した。
「僕が、姉さんの言いつけを守らなかったから。父さまから目を離すなと言われていたのに、そうしなかったから。父さまは居なくなって、トーマスとミハエルとも引き離されて、全部悪い方向に行ってしまった。僕のせいなんです。その上、貴女にまで居なくなられたら、僕はどうしたら良いのか、本当に分からなくなってしまいます!」
 クリスは一息に言いきって静かに肩を上下させた。


『クリス、お父さんの邪魔しちゃダメだからね!あ、あとちゃんとお父さんのこと見張っててよ。行ったこともない場所なんだから何があるか分かんないし。それから……』
『分かっています、姉さん』

 一緒に行けないことに嫉妬して放った言葉のやりとり。あれに縛られていたのだろうか。くしゃりと歪んだ彼の顔がまるで泣きそうなものに見えて、胸が締め付けられるように感じた。


……どっかに行ったりなんてしないよ。行く場所もないし、どこにも行けないじゃない。
 ここは牢獄のようだ。この場所そのもののことじゃない。現実がつらくて、苦しくて。どんな檻より手錠より足枷より、私を拘束して苦痛を与える。それでも私がここに居るのは、居られるのは、生意気で可哀想な弟がいるせいなのかもしれない。


「ごめん」
「貴女が素直に謝るなんて、不思議な気分です」
「何よ。アンタこそ素直に受け止めればいいのに」
「そうですね。……寒くありませんか?」
 肩に、ふわりと温もりが降る。
「こんな薄着で外に出たら風邪をひきますよ。それに裸足じゃないですか。怪我でもしたら――」
「ねぇ、クリス」
「なんでしょうか」
 小言を繰り出そうとする声を遮って目の前の花壇を指さした。
「ここだけ花が咲いてない。アンタ言ってたよね。中庭が綺麗に舗装されてて花が咲いてるって」
「言いました、けど……聞いていたんですか?」
「うん。聞いてた。他にも色々話してくれたこと、覚えてるよ」
「そうですか」
 急に毒気を抜かれたような、ぽかんとした顔になったクリスは私の隣にしゃがんだ。
「確かにこの花壇だけ何も咲いていませんね。種を植えたような様子もないですし」
 白く細い指が花壇の土をつまみ、指の腹でこすり合わせた。
「しばらく何かを植えたような痕跡はありませんね。たんにこの花壇の花が枯れて、まだ種を蒔いていないだけかもしれませんが」
「土見ただけでわかるの?」
「本で読みました」
 そういえば、クリスは毎日読書に励んでいたなあと思い出す。まさかこんな所で知識が披露されると思っていなくて思わず笑みが浮かんだ。クリスの青い目が私の顔を凝視していた。
「なに?」
「この花壇のこと、後で聞いてみます。もしかしたら好きな花を植えて良いと言われるかもしれませんよ」
 そうしたら白い花にしましょう。貴女は白い花が好きですから。そう言って嬉しそうに笑った。

「好きな花を植えて良いそうですよ」
 部屋に夕食を持ってきたクリスが開口一番に放った言葉がそれだった。あの花壇は長い間放置されていて、手入れを言い渡されているはずのロボットたちも何故か手をつけない場所だったそうだ。中庭に来て花をまじまじと眺める者もほとんど居らず、私が指摘するまで誰も気がつかなかったらしい。
 種を植えたら私自身の手で育てよう。誰にも見つけてもらえなかった寂しい場所を見つけたことに運命のような必然的な物を感じていた。
「植える花はもう決めてあるんだ」
「そうなんですか?」
 楽しみですね、と目を細める彼の笑顔に、何故だかちくりと胸が痛んだ。

 はやく私を見つけて






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