きっと今夜は、雨 | ナノ






 マリア・アークライトという人はこんなにも大人しかっただろうかと、クリスは姉の部屋に入るたびに思う。マリアはベッドに横たわり、こちらを見向きもせず窓の外を眺めている。傾きかけた夕日が彼女の白い頬を赤く染め上げていた。地上から遥かに離れている眺めの良い部屋は壁一面ガラス張りのため、街の風景が一望できる。マリアはずっとこの景色を眺めていた。クリスの知る限り、ずっと。
「姉さん。Mr.ハートランドに言われましたよ。あなたのことを。そろそろ研究室に出てきてほしいそうです。心配したふうに言っていましたが、どうでしょうね。彼は冗談めかして言いますし真意を読み取らせませんから」
 Dr.フェイカーの元に来てひと月が経とうとしていた。父が行方不明になり、2人の弟たちは施設へと送られた。クリスも共に施設へと行くことを考えたが、施設の大人たちに、そこに居られるのは16歳までであると説明された。それはすでに入居可能な年齢を超えていた姉と離れることを意味していた。1年の間だけ居ることも可能ではあったが、そうしなかった。隣で説明を受けるマリアが非常に取り乱していたからだ。姉の取り乱し様は想像を越えていた。最初は狼狽えていたクリスが冷静さを取り戻すほどだった。姉を独りにしてはいけない。そう思い、父の行方を探るため、という理由をつけてマリアのそばに居ることを決めた。この研究所の待遇は決して悪くない。不当な扱いを受けるわけでも無く、他の研究員たちから除け者にされることも無かった。クリスにもマリアにもそれぞれ部屋が与えられている。姉に与えられた部屋は1人で過ごすには充分すぎる広さだ。生活感もない。その中で、今は自分と姉と2人。寂しく己の声しか聞こえないことがたまらなく不安で、とにかくクリスは話し続けた。
「それでは姉さん。報告書は僕がまとめておきますから。後で目を通してもらえると助かります」
「……」
「夕食、また時間になったら持ってきます。ちゃんと食べてくださいね」
 サイドテーブルに置かれた昼食は4時間以上前にクリスが持ってきたものだが変わらずそこにあった。パンは乾いているだろうし、とろみのあるスープはレストランの見本のようにつやつやしている。スプーンの1つも動かしていないだろうことは容易に想像できた。
「姉さん、もう1ヶ月経ちます。僕たちがここに来てから」
「……」
「外に行きませんか?中庭が綺麗に舗装されていて、花壇もあって花も咲いているんです。まだ見たことはありませんよね?」
「……」
「外の空気を吸えば気分も落ち着くでしょうし、それに……」
 それに……。その続きが浮かばない。マリアは相変わらず顔を背けていてピクリともしない。まるで、人形に話しかけているみたいだと、クリスは思った。この1ヶ月、彼女が起き上がって動くところを見ていなかった。もしかしたら自分が居ない時に何かしらの行動をしているのだろう。そうは思っても、食事もろくにとらずに外を眺めている姿ばかりが記憶に残っている。これがあの姉の姿なのか。クリスは片手で顔を覆った。
 父が居なくなり、弟たちが連れて行かれ、姉はその目に何も映さなくなってしまった。目は確かに開かれているというのに、いつも虚ろでクリスの影すら追おうとしない。真っ白な肌はますます青白くなって、このまま透明になって消えてしまうのではないかとすら思わせる。かつて、年上とは思えないほど思慮の浅い台詞を吐いていた唇は動かず、「ずるい」だの「むかつく」などという言葉を彩っていた声も発せられない。たった1ヶ月前までは、弟と一緒になって悪戯したりサッカーに興じたりして泥を被ったように汚れた姿で帰ってきて、それでも顔には満面の笑みを浮かべていた。年頃の女性なのだから相応の振る舞いをすべきだというクリスの意見に意地悪な笑みを浮かべながら「生意気だ」と返すマリア。それが普通だったというのに。嘘みたいだ。別人のようだ。頭を振って視線をベッドに戻すもやはり風景は変わらなかった。


「クリス……クリス!」
 ハッと顔を上げると、そこは研究所の休憩室だった。いつの間にか休憩室の椅子に腰かけている。目の前には自分の顔を心配そうにのぞき込むブルーグレーの瞳があった。
「カイトか」
「カイトか、じゃありませんよクリス。休憩すると言ってどこに行ってたんです?ずっと探していたのに」
「いや、すまない。すこし用があって」
「約束、忘れてしまったのかと思いました」
 そう言われてカイトにデュエルを指南すると約束していたことを思い出す。仕事が終わり、デュエルをせがむ彼に休憩するからと言って姉の所に向かったのだ。カイトの金色の髪を撫でてやると眉根を寄せて、不満げに見つめてくる。
「どうしたんだい」
「……疲れてますね。父さんたちの手伝いもあるのに、すみません」
 Dr.フェイカーの息子、天城カイト。この研究所に来てMr.ハートランドに紹介されて以来すっかり懐かれてしまった。彼と一緒にいるとトーマスとミハエルを思い起こさせる。弟たちに教えるように、研究の合間にカイトにデュエルを教えるのはクリスの密かな楽しみになっていた。
「私のことは心配しなくても大丈夫だ。好きでやっていることだから。それよりハルトはどうだい?治療は上手くいってる?」
 ふと表情が翳った。
「いいえ、分かりません」
 カイトはクリスの隣の椅子に腰掛けて俯いた。
「俺には何も、必要な情報が与えられていません。ただ、時間がかかるということしか」
「そうか」
 彼には病気の弟、ハルトがいる。療養のため人里離れた場所に住んでいたらしいが、本格的な治療をするためにこの研究所に半ば強制的に連れてこられたという。俯き、沈んだような声を出す彼にクリスは自然と自分の姿を重ねていた。励ますようにカイトの肩に手を置く。
「大丈夫なんて無責任なことは言えないが、心配しすぎも君の体によくないだろう。きっと治ると信じよう」
 姉さんも、よくなってくれるといい。
 姉がああなってしまったのは自分のせいでもある。その思いがクリスを支配していた。だが姉のために出来ることなどたかが知れている。カイトもまた己の弱さを嘆いていた。病気に苦しむ弟のために何も出来ない、と。意外と似たもの同士なのかもしれない。
「姉さんって?」
 カイトは顔を上げて不思議そうにクリスの顔を見つめていた。
「ん?」
「クリス、いま、姉さんもよくなるといいって言ってましたよ」
 思わず自分の口に手を当てた。声に出したつもりは無かった。心の中に留めておいていたはずなのに、どうやら漏れ出てしまったらしい。彼にマリアのことは説明していない。どうするべきか迷ったが、言ったことを取り消すことは出来ないだろう。
「ああ、そういえばまだ教えていなかったね。姉がいるんだ。病気の……」
 病気。そう言って良いのか分からなかったが、クリス自身それ以外に説明のしようも無かった。
「父が行方知れずになってから床に臥してしまっていてね。まだ研究室に出て来られないんだ」
「そう、なんですか」
「さあ、休憩は終わりだ。デュエルの準備をしよう」
「は、はい」
 無理に終わらせた会話にカイトは納得できないという顔をしながらも首を縦に振った。クリスにはそれが有り難かった。ハルトと同じく解決の糸口が見つからないマリアの『病気』のことを詳しく語る気にはなれなかった。
 

 カイトとのデュエルが楽しくて、つい長引いてしまった。すでに夜の帳はおりている。研究所内の食堂で食事を摂った後マリアのぶんの夕食を貰い、盆に乗せて部屋まで運ぶ。このひと月ですっかり習慣づいた。
「遅くなってすみません、姉さん」
 部屋のドアを開けると真っ暗だった。電気がついていない。窓から見える街の明かりと星明かりが室内を仄かに照らす。ブランケットは人の形に盛り上がっていて、そこに人が居ることを示していた。やはり背中を向けて窓の方を向いている。
「夕食を持ってきました。ここに置きます」
 サイドテーブルに夕食を置いた。そこには変わらず昼食が残されていたが、スープの中身が半分ほど減っていた。壁に設置されているパネルを操作して掃除用ロボットを呼び出す。5分もすればやってきて、残飯を勝手に片付けてくれるだろう。
「今日もカイトとデュエルをしました。彼は頭が良い。とても教え甲斐がありますよ。新しいことをどんどん吸収して自分の型に落とし込むのが非常に上手い。トーマスとミハエルもなかなか覚えが良かったけど、彼の向上には目を見張るものがある。姉さんもきっと彼を気に入ると思います」
 クリスは話しながらマリアのベッドへ近づき、床に膝をつく。姉と同じ目線になって窓からの景色を見る。遮る物がない満天の星空が輝いていた。
「星が綺麗ですね。ここのところ天気が良いですから、明日も晴れるでしょう」
 もしかしたら、姉はずっと空を見つめているのかもしれない。遠く離れた大切な人たちを思って。その思いが彼女の心を遠くに飛ばしてしまっているのだろうか。遠くへとやったその心はいつこの細く小さな体に戻ってくるのだろう。それを科学や機械で証明できたなら良かったのに。クリスのことを聡明だ天才だと周りの大人たちは言うが、そんな自分は姉の『病気』すら解決することが出来ないのだ。
「今すぐでなくても構いません。以前のように笑ってください。僕を、独りにしないでください」
 星が一筋落ちていくのを見送って、クリスは祈りを捧げた。

 遠い空を見つめる少女






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -