その姫、不在につき。2/3
「天使には、シネマティックレコードを改竄(かいざん)出来ると言う能力があります」
図書室に向かって廊下を進みながら、ウィリアムがセバスチャンに説明する。
「過去を変えられると?」
「そんな事は神すら出来ないでしょう。ただ、偽りの安寧を与えるのです」
魂が壊れる程の負の経験をした者は、その過去を無きものにしたいと願う。
しかし、過去はいつまでも、その身に付き纏うもの。
「天使の能力は、起こった過去をそのままに、それが決して負の出来事ではなかったと、過去の印象を操作するのです」
目的の図書室の前に着き、セバスチャンは扉を開けて中へ飛び込んだ。
「坊ちゃん!」
そこで目にした光景に、執事と死神達は息を呑む。
天使の膝に頭を乗せて気を失っているシエル。
その身体は青白く光りを放ち、シネマティックレコードが溢れ出していた。
アンジェラは膝の上の少年を眺めながら口を開いた。
「今、彼の過去は書き換えられている…白く、清く、浄化され……」
「浄化?」とセバスチャンが眉を顰めた。
「人は誰しも、憎しみなど抱きたくはないもの。それは彼も同じ」
小さく呻くシエル。
「坊ちゃん!」
執事は主人に駆け寄ろうとするが、
「なんと浅はかな。」
背後のウィリアムの言葉に足を止める。
「今強引に止めては、あの子供の中に過去が正しく収まらず、人として成立しない存在と化すと言うのに」
天使は、少年のシネマティックレコードが書き換えられていく様を穏やかに見下ろしている。
「そう…白い人間に……」
「浄化される…私の坊ちゃんが……」
気を失ったシエルが見ていたのは、先程と同じ炎に包まれる屋敷。
その一室、椅子に腰掛けている姿を目にしたくはなく、少年は掌で顔を覆ってその場で膝をついた。
すると。
「大丈夫だよ、シエル…」
柔らかい男性の声に名前を呼ばれる。
顔を上げると、目の前は炎の屋敷ではなく明るい草原だった。
そして、そこにいるのは草原に立つ二人の男女。
ヴィンセントとレイチェル、シエルの亡くした両親だった。
「私達に訪れた死を嘆く事は無いんだよ」
「そうよシエル。あなたの苦しむ姿を、見たくはないわ」
穏やかな両親の言葉をシエルは否定した。
「嘘だ……っ、嘘だ…!!だってお父様とお母様はっ、」
すると、レイチェルが口を開いた。
あの時、私達には光りが見えたのだと。
「とても豊かで穏やかな、慈愛の光り…死を以て私とお父様は身も心も本当に一つになれた…」
「そう…そして、一つになった私達は、シエル…お前の身も心も、丸ごと抱き締める事が出来るんだよ」
両親は、息子へ優しく言葉を紡ぐ。
「シエル…愛しているよ」
「シエル…愛しているわ」
「お父様…お母様……」
シエルは二人のもとへゆっくりと歩み始めた。
「さあシエル、いらっしゃい。私達は誰も恨んでなどいない」
「そう、それで良いんだよシエル。愚かな負の感情に惑わされてはいけない」
そう言いながら、ヴィンセントがシエルへと手を差し出す。
「憎しみは脱ぎ捨てなさい。憎しみは、“穢れ”だ」
「……ッ!」
シエルは、はっとして歩みを止めた。
立ち止まった息子に両親はどうしたのだと問い掛ける。
「い、や、だ……っ」
絞り出された息子の声に、両親は戸惑う。
「何を言うの!?シエルっ」
「……お父様とお母様が…誰も、恨んでなかったとしてもっ……それはっ、僕の憎しみとは関係ないっ、」
「シエル…なんと言う事を」
ヴィンセントが目を見開く。
レイチェルはシエルに駆け寄りその肩を掴んだ。
「あなたは私達の事を愛してくれていたんじゃなかったの!?」
俯いたまま、シエルは声を絞り出した。
「愛してるよ…お母様…、だから苦しかったんだ……、っ、痛かったんだよ…っ」
少年は、ファントムハイヴ家当主の指輪を嵌めた左手の拳を握りしめた。
「僕には、…憎しみしか残らなかった……」
「だからそれを捨てて、」
「嫌だっ!!」
ヴィンセントの言葉を、シエルは張り上げた拒絶の声で遮る。
「憎しみを捨てたら、あの日からの僕は存在しない事になる。そんなのは僕じゃない…っ!!」
俯いていた顔を上げ、亡くした両親を見上げる。
レイチェルはシエルから身を引いた。
すると、ヴィンセントとレイチェルの姿が歪み始めた。
そしてヴィンセントがレイチェルに姿を変える。
「は……っ、」
目を見開くシエル。
思い出すのは、炎の中、継ぎ接ぎにされた両親の顔。
「わあああ…っ!」
少年は頭を抱えて悲鳴を上げた。
それは何かを振り切る様な叫びだった。
「僕は…っ、失わないっ……。僕は失わない」
真っ直ぐに、強い意志の宿った碧の隻眼が目の前に立つ男女を見据えた。
「この憎しみを、失わない……!」
しっかりと意志を宿した少年の言葉。
両親の姿は、悲鳴を上げて消え失せたのだった。
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