甘露五里霧中1/2
タウンハウスがカリーの匂いに包まれている昼下がり。
私はメイリンと一緒に玄関ホールを掃除していた。
「……!!」
階段を磨いていた手を止め、何気なくメイリンを見た途端、私の目は飛び出しそうになった。
ハタキと間違えて、彼女は箒を振り回していたのだから。
「お掃除してピカピカにするだよー!」
ご機嫌なメイリンが振り回す箒の先には、フロアスタンドのライトが立っている。
あの勢いでライトを叩けば、倒れてしまう事は想像がついた。
「メイリンさん!それハタキじゃなくて箒ですよー!」
私が声を上げると、彼女は勢い良くくるりと回って此方を振り返る。
その拍子にバシッと音を立ててスタンドライトに箒が当たってしまった。
傾くライトはそのまま床へ倒れていく。
「ぎゃああっ!割れる…っ!」
階段を磨いていた用具を放り投げて走ったけど、間に合いそうにない。
倒れていくライトに悲鳴を上げたが、それが床に叩き付けられる事はなかった。
「ふう…。危機一髪って感じ?」
その場に現れた人物は柔和な笑みを浮かべ、倒れかけたライトを支えている。
「劉さん!」
チャイナ服の青年は、よいしょ、と言いながらスタンドをその場に立て直した。
「もっもも申し訳ありませんですだ!」
「すいませんっ、ありがとうございます!」
メイリンと二人で頭を下げる。劉は平気だと言って顔の横で手を振った。
「もしかして、お帰りですか?」
「うん。一度帰るよ。品評会の日にまた来るから、って伯爵に伝えといてくれる?」
「はい勿論!あ、お見送りしますね」
メイリンに箒からハタキに持ち替えてもらったのを確認し、私は劉を送るため門の前までついて行った。
「よく積もるねえ、英国は」
劉は足元の雪に目を落とす。
「ほんとですよねー。私もこんなに雪見たのは初めてです」
「あれ、リユは英国育ちじゃなかったの?」
「え?ああ…まあ、」
曖昧に誤魔化して頷きながら、不意に思い出した。
「けど、中国だってすごく積もる地域もあるんじゃないですか?」
「そう言えばそーだね」
「劉さんは華僑ですもんね、……故郷が懐かしいとか、思いませんか」
故郷の一言に彼がピクッと反応する。しかしすぐに、無邪気に笑って空を仰いだ。
「そーだなぁ。でも、随分昔のことだから忘れちゃったよ」
この人は、いつもこうして本心を隠す。
嘘か誠か判断つき兼ねない言動ばかりで。
「劉さんはどうして、シエルさんの側にいるんですか?」
「ん?どうしたの急に」
唐突な質問に首を傾げる劉。けどやっぱり、瞳は閉じられたままで。
「暇つぶし、ですか?」
「ははは、どーだろう。まあ、我は面白いから伯爵の側にいるんだけどね」
それじゃあ、面白くなくなったら簡単に裏切る事も出来ちゃうの?とまでは訊けない。
けれど本当のところ、劉はどんな気持ちでシエルの側にいるんだろう。
かつて自分の故郷を荒らした英国の国家に従う貴族を見て、本当に何も感じないのだろうか。
「今日のリユは質問だらけだねえ」
「なら、もう一つだけ」
息を吸うと肺に冷たい空気が入ってきた。
「なんでいつも私のこと構ってくれるんですか?」
「それはリユが可愛いからだよ」
私の頭に手を置いて劉は笑う。
「…ありがとうございます。劉さんは、優しい人ですね」
彼の笑顔を見上げながら、私も同じような笑みを浮かべた。
(きっと刑事さんじゃなくて私が“あの場”に飛び出しても、彼は私を刺すんだろうな)
(私は、霧のかかったような彼の感情と自分がとるべき最善の方法を探っている)(天から甘露が降るような行動は、いつまで経っても見つけられないままに)
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