その姫、飛花1/3
雨で濡れた地面に、私は膝をついて座り込んだ。
仰向けに倒れて目を閉じているクラレンスは微かに息をしている。
「ク、ラレン、ス…さん」
「リユ…………?」
名前を呼ぶと、彼はうっすらと目を開けた。
長い睫毛に縁取られた瞳は、綺麗などこまでも澄み切った空の色だった。
「そうですよ、リユ、です…」
ゆっくりと此方に伸びてきた手を握り返す。彼の手に体温は感じられなかった。
「俺は、死ぬんだな」
穏やかな口調でクラレンスは微笑する。
彼は私の後ろに視線を向けた。
そこには燕尾服の悪魔が黙って私達を見下ろしている。
「…ありがとう」
「私は、主人の命で動いたまでです」
セバスチャンの言葉にクラレンスは苦笑する。
しかしその瞬間、彼は口から勢いよく吐血した。
「クラレンスさんっ!!」
みるみる青ざめていくその顔に、もう長くは保たないと悟った。
どうしてこんな事になってしまったんだろう。
考えても仕方のない思いが胸を巡る。
けれど何よりも一番強く思ったのは、彼を死なせたくないという事だった。
「ねえクラレンスさん!私まだ貴方に、稽古つけてもらってる途中ですよ?こんな可愛い弟子を放置ぷれいしちゃう気ですかっ?
…それに、クラレンスさんとサクラさんの話もちゃんと聞かせて…下さい、昔サクラさんも…、ほんの少しだけ貴方の話をしてくれまし、た…。短い間だったけど、忘れられない…人が、いたって……っ」
涙を必死に堪えて彼の手を強く握る。
すると閉じかけていた空色の目が僅かに開いた。
それから、何かを思い出すようにクラレンスの視線は宙を漂う。
「ああ 、稽古は、劉のとこの…猫に頼めば…いい、さ…。あんたは、良い弟子、だったよ…可愛すぎて俺には勿体ない、」
こんな時まで、彼は私の冗談を律儀に拾って返してくる。
そういうところが、私の知っているクラレンスらしかった。
荒い息を吐く彼の側に、いつの間にか黒衣の死神が立っていた。
「ふ…っ、死に際に悪魔と死神がみれるなんて、そうそう無い、な…」
「笑わないで下さい。縁起、悪いです…。どうせなら、もっと良いもの見てからにして下さいよ」
そう言うと、クラレンスは真顔になって掠れた声で呟いた。
「 さく、ら」
「え?」
「一度だけでいいから、見てみたかったな」
「さくら って、桜の花の事ですか?…だったら!御屋敷に桜の木があるんですよ、もうすぐ春だからっ、あと少ししたら、きっと…きっと…っ!」
満開の桜を見られるから。
英国の深い霧を消し去ってしまうほどに幻想的な桜を見る事が出来るから。
クラレンスの虚ろな目はいつの間にか閉じられていた。
それでも私は声をかけ続ける。
その時、不意にクラレンスが私の腕を掴んだ。
そのまま体を引き寄せられ、彼の唇が耳元で囁く。
「 ごめん、」
小さいけれど、はっきりした声。
顔を上げると、彼はまっすぐに私を見ていた。
その目と合って、気付く。
空色の瞳が告げた言葉は私に向けられたものではない、と。
それだけははっきり分かった。
そのまま続けてクラレンスは口を動かしたが、それが言葉になることはなかった。
クラレンスの空色の目は、静かに閉じていった。
「クラレンス ミルズ。貴方の魂を回収します」
淡々とした口調が響いた。
青年の亡骸を見下ろしたウィリアムは、デスサイズを構えている。
「待っ…、!」
死神を止める前に、私の体は後ろから掬い上げられた。
クラレンスの頬から私の手がするりと離れる。
セバスチャンにその場から引き離されたのだ。
それと同時に、眠る吸血鬼の体からシネマティックレコードが溢れ出す。
「クラレンス ミルズ。本来ならば120年前に、この村で回収していた筈の魂…。しかし奇異な貴方の運命もこれまで」
ウィリアムは無感動に青年の亡骸を眼鏡の奥で見つめる。
仕事が終わった死神は私達に向き直った。
「それでは。私はこれで失礼します」
闇色のスーツを翻して、彼は森の中に消えていった。
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