その姫、冷雨3/3
「ク、ラレン、スさん…?」
「サク、ラ…オレは……。お前との約束一つ、守れ、ない」
その言葉に、はっとした。
やっぱり彼が長い間、人を襲わずに血を飲まなかったのはサクラさんが関わってるんだ。
二人の間に何があったのかは分からないけれど。
雨よりも冷たさを感じる涙を受け止めて、私はそう思った。
「だからオレはお前なんか嫌いなんだよ。……くッ!!」
不意に正面から飛んできたシルバーが、吸血鬼の肩に突き刺さった。
私の上から飛び退き、クラレンスが苦しげに傷口を押さえる。
「やはり半分は人間といえども、銀はお嫌いなようですね」
此方へ来ようとするシエルを制して、セバスチャンが私を抱え起こした。
しかしその紅い目は吸血鬼を射抜くように見つめている。
「ナイフとフォークでオレを殺ろうってのか?悪魔」
「ファントムハイヴ家のシルバーは純銀製の一級品です。貴方の心臓を貫くに、不足はないと思いますよ」
悪魔の挑発的な態度に吸血鬼は目を細めた。
「サクラを寄越せ」
するとセバスチャンは片腕を私の腰にまわして、見せつけるかのように引き寄せる。
「リユは“サクラ”ではありません。彼女は、」
しかし言い終わらないうちにクラレンスが襲いかかってきた。
セバスチャンは私を小脇に抱えて攻撃を躱した。
「貴方には、蹴り飛ばされた御礼をして差し上げなくてはね」
口角を上げて悪魔が言った。
私を地面に下ろすと、セバスチャンは再びシルバーを構える。
「調子に乗るなよ悪魔。食事の前に、お前から消してやる」
強気に言うクラレンスだが、その顔色は真っ青だった。
“俺を殺してくれないか”
悲痛な顔でそう告げた彼の姿を思い返す。
血を欲する殺人の本能と、それとは逆の理性。
私は、どうしたらクラレンスを助けられるんだろう。
「セバスチャンさん、待って下さい」
燕尾服の腕を掴んで引き留める。
私はセバスチャンの前に立って、吸血鬼に言い放った。
「私の血で良いならクラレンスさんにあげます」
「リユ!」
セバスチャンが私を咎める。それを無視して、私は目を見開くクラレンスに話を続けた。
「でも、私はまだ此処で死ぬ訳にはいかないんです」
一歩ずつ彼に近付きながら、私は着ていたメイド服の首元を開けた。
紺色のリボンがひらりと宙を舞って地面に落ちる。
「だから、全部はあげられません。でも死なない程度の血なら幾らでもあげますから。クラレンスさんなら、人がどの程度血を失ったら死んじゃうか分かるでしょう?」
「殺さない程度に、好きなだけ飲めって事か?」
「はい。私は貴方を信じます。だからこれ以上、誰も傷つけないで」
サクラさんがもし、クラレンスに人を殺さないでと約束していたなら。
私はその意志を継がなくては。
その為なら、私の血なんて。
クラレンスとの距離は、あと数歩。
その時だった。
「ふざけるなっ!!」
ぴたりと私の足が止まる。
後ろを見ると、肩で息をしながらシエルが怒りの表情を浮かべていた。
「ふざけるな!お前はどこまで甘いんだ!」
隻眼の瞳の少年が眼帯を外した。
契約印の瞳が妖しく光る。
「命令だ!セバスチャン!今すぐリユをあいつから引き離せ。あの吸血鬼を殺せ!」
「イエス マイロード」
言うが早いか、気付いた時には、私の隣にセバスチャンが立っていた。
いきなり首根っこを掴まれ勢い良く後ろに投げられる。
尻餅をついた私の側にシエルが立っていた。
少年の視線の先には、闘う悪魔と吸血鬼。
「お願いシエルさん、セバスチャンさんを止めて!クラレンスさんがあんな風になってるのは血を飲んでないからなんだよっ、私があげたら、きっと、」
「いい加減にしろ!!」
私と向き合ったシエルが乱暴に腕を掴んだ。
「甘い考えも大概にしろ!お前は何も分かってない!」
碧と紫のオッドアイは、私が今まで見た事がない程深い色をしていた。
「クラレンスは人間じゃない。あいつの話を聞いてなかったのか?村ごと潰すかもしれないほど飢えていると言っていただろう!?
お前の甘い提案が通じる相手じゃないんだ!」
「でもっ、」
「でもじゃない!…クラレンスだけじゃない、セバスチャンだって同じだ。あいつは契約があるから大人しくしているだけで、本質は同じなんだ。
二人ともお前みたいに甘くない!あいつらは血に飢えた獣同然だ!」
私は何も言い返せず立ち尽くした。
私が彼らの事を理解出来ていないだけで、シエルの言う事は正しい。
この少年は常に、人ならざる危険な存在を傍らに置いているのだから。
「隙を見せれば、やられるのは自分だ」
それは、重い言葉だった。
雨は止み、空から三日月が姿を見せ始める。
月明かりの下、吸血鬼の爪に引っ掻かれたセバスチャンから血が飛び散った。
しかし同時に、クラレンスもその胸に数本のシルバーを受ける。
吸血鬼は悪魔の放った純銀のナイフに、その心臓を貫かれたのだ。
ぐらりと傾く、青年の身体。
その瞬間はいやにゆっくりで、まるでその場面だけ切り取られたみたいだった。
ずっと私達を傍観していたウィリアムが、ゆっくりと動き出す。
私は土の上に仰向けに倒れたクラレンスのもとへ駆けていった。
(見下ろした彼の顔はどこまでも蒼白で)(けれど、胸から溢れる鮮血だけは不気味な程に鮮やかだった)(でも、どこかクラレンスの表情は安堵しているようにも見えた)
(月明かりが美しく、彼の金髪を照らした)
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