その姫、残夢5/5
まるで、長い夢から醒めたような目覚めだった。
「…………あ、」
なんて、懐かしいんだろう。
私は体を起こして茫然と辺りを見回す。
自分のベッドの上に座ったまま、此処が私の部屋だったと実感した。
勉強机に並ぶ学校の教科書や、本棚に収められた本、友達から誕生日プレゼントに貰ったクッション、制服に、私服。見慣れたカーテンに、ベッドカバー。
恋しかった訳ではないのに、記憶と変わらないそれらに妙な安堵感が込み上げてきた。
それから、失望感も。
視線を落とすと、枕元には携帯電話。
それを見た途端、急に現実感が蘇ってきた。
「……っ、」
慌てて携帯を開く。
時間は朝の8時。
日付は、
「2009年……、4、月………」
それは、私があの世界へ行った日から1日しか経って居ない日付だった。
「1日、じゃ、ないか……ほんの、数時間くらい…?」
途端に曖昧だった記憶を何もかも思い出す。
黒執事の世界へ行く前、此方の世界はゴールデンウイーク初日。
2日後に控えた友達と遊ぶ約束の為、私は早いうちにと学校の課題を夜までしていた。
「それで、寝落ちて……」
約一年をあの世界で過ごした。
なのに、此方ではたった数時間の事だったのだ。
「ゆ、め……だったの……?」
そんな筈ない。
はっきりと覚えてる、彼らの声も体温も、……だけど。
川で濡れていた感覚は消え失せ、泣いていた筈の目に涙は無い。
打ち付けた体や腕の痛みも、何も。
全部まやかしだったとでも言うように。
胸の奥は、こんなにも鈍く重く痛むのに。
ああ、でも……。
私はそっと唇に触れた。
目を閉じると、体温の無い柔らかな感覚が蘇ってくる。
好きだったと、あの時伝えた。
紅茶色の目は一瞬だけ瞠目して。
微笑を浮かべた薄い唇にそっと触れられたのだ。
「ファーストキス、だったのにな……」
壊れ物に触れるような、ほんの刹那の感覚だったのに。
何故かそれだけが、唯一鮮明に私の体が記憶していた。
「……っ!!」
突然鳴った携帯の音に、肩を震わせて目を開ける。
酷く懐かしく感じるのはメールの着信音。
宛名は、遊びの約束をしている友達だった。
明日の待ち合わせ時間と場所が記されている。
「…………、」
まだ、頭がついて行かない。
けれど体だけはこの世界の“普段通り”に、動き始めた。
まずはシャワーして着替えよう。
朝ご飯も、作らなきゃ。卵が残ってたなと不意に思い出した。
部屋を出る前、姿見に映った私に19世紀英国のメイドの面影なんて、欠片もなかった。
其処にいたのは、21世紀のどこにでもいる平凡な、女子高生だった。
だから、今はあの世界での思い出も後悔も寂寥も、何もかもに蓋をして。
此処に居るただの、スズオカ リユに、戻るだけ。
(眠り姫は、夢から醒めた。そして、目が覚めた彼女の傍に王子の姿はない。)(目覚めのキスは、別れのキス。)
(右も左も分からぬまま、それでも姫は歩み始めた。物語は、ここから始まる)
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