その姫、残夢4/5
セバスチャンは、辺りをぼんやり眺めるシエルに一冊の本を差し出した。
「これは?」
「長い旅路の退屈しのぎにと、持って参りました。屋敷を去るタナカさんが残していった、日記帳です」
「タナカが…?」
手元の日記を、シエルは開いた。
“私から、坊ちゃんへお伝えできる真実 ――”
そう書き始められた内容は、シエルの父ヴィンセント ファントムハイヴが生前、女王は自分を闇に葬ろうとしていると気付いていたと言うものだった。
ただ、これも時代の流れだからと、ヴィンセントは女王を恨まなかった。
そして、執事であった当時のタナカに告げていた。
シエルにはこの事は黙っておいてほしいと。
憎しみからは、何も生まれないからと。
日記を読み終えて、真実を知った少年はただ静かに表紙を閉じた。
「あの天使がいつか見せたまやかしは…あながち外れてはいなかったか」
どうします?と執事が問い掛ける。
「どうする事もない。復讐するべき人物はもう居ない。そして……僕すらも、もう、」
言い掛けたシエルは、日記帳の隙間から何かが落ちたのに気付いた。
「これは……?」
白い封筒には、“シエル ファントムハイヴ卿”の文字、差出人は“リユ スズオカ”。
どうやらセバスチャンも手紙には気付いていなかったらしい。
紅茶色の目を丸くしながらも、主人から渡されたそれの封を切り、再び返した。
シエルは二つ折りにされた白い便箋を開く。
ふわりと、あの春の花の香りが広がった様な気がした。
“シエルさんへ
これは私が貴方へ宛てる、最初で最後の手紙です。
私を拾ってくれた事、そして私の居場所は此処だと示してくれた事には幾ら感謝を伝えたって足りません。そんな貴方へ、微々たるものですが、私から恩返しをさせて下さい。
これを全て読み終えた時、シエルさんの目的が速やかに遂行される事を祈ります。”
そう綴られた手紙の先に記されていたのは、リユがプレストンの修道院で天使アンジェラと交わした会話の内容だった。
そして、もう一つ。
どうしてリユが女王を疑ったのかと言う理由だった。
“上手く言葉にするのは難しいけれど、私にはこの世界の、シエルさんの周りで起こる過去や未来で分かる事があります。”
“シエルさんの過去、セバスチャンさんとの出会い、それから貴方の目的……。細かく全てではないけれど、だいたいの事を私は初めから知っていました。
ずっと黙っていてごめんなさい。卑怯だと思うかもしれません。それでも、私が不必要に未来を話してしまう事で、この環境が悪い方に変わってしまうのが怖かった。
自分の事ばかり考えて、何も出来なかった。 ――”
「やはり、な……。リユには、全部見透かされているような気がしていたんだ」
シエルはそう零しながら、手紙の最後まで目を通した。
日付は、ちょうど女王の親書の件が出回る直後。
それで全てが繋がった。
「あいつは劉やアバーラインの事も知っていて、自分が死ぬつもりだったんだな」
「……その様ですね」
ただ結局そうはならず、恐らくリユの予見していた通りになってしまったのだろうが。
「どうします?坊ちゃん」
「言っただろ。どうする事もない。全て終わったんだ。……ただ、」
「ただ?」
リユの手紙は、今までの感謝と謝罪の文字で締めくくられていた。
脳裏に浮かぶのは、最後に泣きそうな顔で微笑んでいた少女の顔。
シエルはぽつりと呟く。
「リユの口から、直接聞けて良かった」
セバスチャンは、はっとしてから柔らかに笑んだ。
「そうですね」
いつの間にか霧も晴れ始め、暗い海に目的地が見え始めた。
契約者である悪魔と少年が辿り着いたのは小さな島だった。
少年を抱き上げて、悪魔は木々の間を進んでいく。
やがて、廃墟となった建物の庭のような空間に到着した。
まるで柔らかな明かりのように、月明かりがその場を照らしていた。
「さあ、坊ちゃん」
「此処が最期の場所か」
そう言う幼い主人を、ベンチにそっと降ろすセバスチャン。
「ええ。」頷いて、シエルの正面に立った。
シエルがその小さな手で眼帯に触れながら問うてくる。
「痛いか?」
「そうですね…少しは。なるべく優しく致しますが、」
答えると此方の言葉を切る様に声が返ってきた。
「いや、思いっ切り痛くしてくれ」
少年は真っ直ぐ顔を上げた。
「生きていたと言う痛みを、魂にしっかりと刻みつけてくれ」
その瞳に宿る力強い意志に、セバスチャンは思わず息を呑んだ。
それからすぐ表情を正す。
変わらず、執事の姿で。
「イエス マイロード」
ふわりと燕尾を揺らしながら、今日まで仕えた主人の前に跪いた。
シエルが体の力を抜き、ベンチに凭れ掛かった。
セバスチャンは立ち上がり、片方の手袋を口で引き抜く。
そしてゆっくりとベンチに歩み寄った。
碧の瞳を見下ろしながら白い頬をそっと撫でる。
ふと、最期にあの少女に触れた感覚が頭を過ぎった。
その時、シエルが口を開いた。
「セバスチャン、お前は嘘は吐かないが本心も言わない」
「……!」
その瞬間、それまで大人しく座っていた少年は、目の前の黒いネクタイを引っ張り、執事の顔を引き寄せた。
「今は僕だけ見ていろ」
「坊ちゃん……、」
小さな主人の力強さに、悪魔は感服する。
そして、それに応えるように、紅茶色の瞳を細め口元に弧を描いた。
「勿論です。私の御主人様は貴方だけですよ、マイロード」
「それで、いい」
魂を明け渡す少年も、静かに笑みを返した。
(ただ穏やかに悠然と、最期を迎えるには、あまりに静かで)(願わくば、君に優しい未来を。)
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