その姫、残夢3/5
シエル ファントムハイヴは、ゆっくりと目を開けた。
いつの間にか小舟の上で眠っていたらしい。
「坊ちゃん、お目覚めになりましたか」
櫓を漕ぐ執事の声に身を起こすと、其処は辺り一面深い霧に覆われていた。
水の上を滑るのは小舟だけで、櫓が立てる静かな水音だけが響いている。
「此処は、どこだ…」
「知りたいですか」
「知りたいから訊いている、……いや、別に知らなくても…良い気がする…」
空も見えない霧の中、それでも小鳥が囀りながら、頭上を飛んでいった。
シエルの服装はいつの間にか黒の喪服に変わっており、右目には眼帯も付いていた。
その眼帯に手で触れながら少年は呟く。
「随分と長く眠っていた様だ。……これは、」
ふと気付けば、川面に映し出されている、今日までの自分の映像が流れていた。
「坊ちゃんのシネマティックレコードですね。此処まで流れてきてしまったようです」
「そうか…。これが僕の、今までの人生」
碧の瞳に、川面の映像が映っては流れていく。
「僕は、もう死んだ」
独り言の様に零すと、セバスチャンの言葉が返ってくる。
「まだですよ。これから私が、坊ちゃんに死をお届けします。最期まで責任を持って、貴方の忠実なる執事として」
「エリザベスは、きっとぴーぴーと泣くだろうな」
流れるシネマティックレコードを見ながらシエルは思った。
「ええ、エリザベス様の坊ちゃんへの愛情は、とても深い」
マダムレッドが死んだ時もめそめそ面倒だったとシエルが言えば、ひねくれたシエルの分も泣いてくれたのだとセバスチャンが返す。
シエルの目が、バルド、メイリン、フィニの三人の映像に留まった。
「あいつらは、死んだのか?」
「さあ…あの時はまだ息があった様ですが」
「しぶとさだけは人並み以上だからな、あいつらは。
……プルートゥは?」
「後で骨を回収しておきましょうか」
「骨を?……いい。骨に何の意味がある。全ては…、」
続きを言い掛けて、シエルは口を噤んだ。
それをセバスチャンが「全ては?」と促す。
「いや、全てを語るには、きっとまだ…少しだけ、早い」
再びシネマティックレコードの映像を眺めると、そのあちこちに黒い髪の少女が映っていた。
それを見て小さく微笑を零した主人の傍らで、執事も穏やかに微笑む。
流れていく、シエルの過去。
そこにいるリユは、ころころと表情を変えながらも、その場に似つかわしくない程の笑顔が多く。
シエルは、彼女という小さな存在が自分にとっては大きなものだったと、最後になって気付かされた。
「リユには、……ずっと笑っていて欲しいものだな」
笑顔は綺麗なものなのだと彼女に教えられた気がする。
「そうですね」
何の含みもなく素直に頷く執事。
意外だと思ってシエルは顔を上げた。
「……傲慢だとは言わないのか」
主人の言葉に、セバスチャンはただ静かに微笑を浮かべてみせた。
碧と紫のオッドアイの瞳は少しの温かさを浮かべて、再び走馬灯の揺蕩う川面に視線を落とす。
少年と執事、最初で最期の穏やかな沈黙が流れていく。
ふとシエルが顔を上げると小さな光の粒が辺りをふわふわと飛び交っていた。
「この光は…?」
「坊ちゃんの隣りを通り過ぎて行った者達の、坊ちゃんへの想いです」
「僕への想い、か…」
流れていく光を見つめながら、「……綺麗だ」シエルは呟いた。
「綺麗?」
「ああ。別れが寂しいとも悲しいとも思わない。でも、…ただ、綺麗だと思う」
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