その姫、残夢1/5
「 、……! ……リユ!」
瞼の裏に眩しい光りと誰かに呼ばれる声を感じて、私の意識が浮上した。
「……ん、……シ、エルさ…?」
此方を覗き込むオッドアイの少年。
その後ろには朝日で照らされた青い空が広がっていた。
目を開けた私に安心した様な表情を浮かべるシエル。
が、すぐにそれは一変して目くじらが立った。
「シエルさん?じゃないだろう!!全くお前は!」
「えっ…、」
突然怒鳴られながらも身を起こすと、其処は小舟の上だった。
「え?ではありません。幾ら気が抜けたからといって、自分から川に落ちてどうするんです?」
私の後ろから燕尾服の執事が顔を覗き込んできた。
「セバス、チャンさん……、」
ああ、そうか…私……。
「…あれ?でもどうして二人とも濡れてるんです……?」
私が言うとセバスチャンが溜息を吐いた。
「リユを助けようと坊ちゃんも飛び込まれたのですよ。正しくは落ちた、と言うべきでしょうが…」
「っ!?シエルさん何してるんですか!?怪我はっ、」
「お前が言うな。」
そんな事より、と真っ直ぐに私を見つめてくるシエル。
「まだ、伝えていない事がある」
そう言ってからシエルはふっと表情を和らげた。
それから、どこか哀しそうな、でも優しい目と声で。
「ありがとう、リユ。……今まで、僕のそばに居てくれて」
「……!」
温かく溶けていくような言葉に、私は胸の奥がじわりと熱くなった。
口を開こうとした時、セバスチャンが先に声を発した。
「坊ちゃん、リユ、……あれを、」
執事が指差す先には、まるで天使が飾られたかの様に息絶えているタワーブリッジ。
その橋の、まるで門のような真下の部分が光を放っていた。
上空から水面ぎりぎりまである光は、朝日の反射などではなくて。
本来見える筈の向こう側の景色も、柔らかく揺れるカーテンの様な光で遮られている。
まるで橋の下だけ切り取った別の空間みたいだった。
「なんだ…あれは……?」
「どうやら、リユにも迎えが来た様ですね」
セバスチャンは、穏やかに目を細めながらそう言った。
執事の漕ぐ小舟で橋の下まで辿り着く。
目の前には、柔らかく揺れる光があった。
「この向こう側が、リユの元居た世界……」
「ええ、恐らく。彼女ととてもよく似た気配を感じますから」
小舟の上でその光と向き合う私。
その後ろで会話する少年と執事の声を聞きながら、目を閉じてゆっくり息を吐いた。
私にも分かる。それは直感の様なものだけど、この光をくぐれば元居た場所に戻るのだろうと。
今居るこの世界との、別れの時だと。
目を開けて、後ろに向き直った。
此方を見つめてくるシエルと、その背後に控えるセバスチャン。
もう二度と、こんな風に並ぶ二人を見る事はないんだと、不意に思った。
私はシエルに歩み寄って、そっと彼の頬に片手を伸ばした。
僅かに目を見開いたシエルは、それでも黙って受け入れてくれる。
この少年のこんなに穏やかな顔を見るのは、これが最初で最後だ。
「海の青と空の蒼を溶かしたみたいな碧い瞳。ずっと、綺麗だと思ってた」
暗い復讐の炎が燃え尽きた今も、それは変わらずに。
シエル ファントムハイヴと言う少年は、私から見ればいつだって真っ直ぐだった。
「大好きですよ、シエルさん」
触れていた頬から手を離す。
するとシエルは口元に柔らかい微笑を浮かべた。
「ああ、ありがとう。リユ」
ああ……、そうだ。
そうやって、いつも私の名前を呼んでくれた。
私に、居場所をくれた。
一歩シエルから離れて、私は彼と後ろに控える執事、両方を見遣った。
「セバスチャンさんが見つけてくれたから、私は迷わずに済みました。シエルさんが拾ってくれたから、私に居場所ができた……」
だから、そんな二人にだからこそ、きっと今は謝罪や別れの言葉を口にすべきじゃない。
「今まで、……っ、 ありがとう……っござい、ました…っ」
頭は下げなかった。
涙で滲みそうな視界でも、二人の姿を焼き付けて起きたかったから。
漫画でもアニメでも空想でもない、今私の目の前に存在する、二人の事を。
†
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