眠り姫は夢から醒めたpart2 | ナノ
その姫、乖離1/3

万博会場から宿へと戻ってからも、シエルとセバスチャンの間には冷たい空気が漂っていた。

いや、セバスチャンの方に、だ。
表面的にはいつも通りで、馬車の中でのあの凍るような態度も消えていたけれど。
はたから見る私にはセバスチャンのシエルへの接し方に距離を感じていたのだ。

不安に駆られる私の気持ちに構う事なく、あっという間に一日が終わっていく。


ホテルの部屋で夕食を済ませた後、シエルは窓際のソファに座ってパリの街並みを見つめていた。

セバスチャンは、明日の手配があるからと言って部屋を出ていた。

「シエルさん…、」

声を掛けると、彼は振り返らないまま、窓硝子に映る私へ目を向けた。
私も、窓に映る碧の隻眼を見つめ返す。

「…あの、」

「意外だったか?」

「えっ?」

「僕があの場でセバスチャンを止めたのは。」

シエルは静かに目を伏せた。

「……分からないんだ」

ぽつりと零れた彼の言葉は、いつもの力強さや凛とした色を失っていた。

「僕は……、」

そのまま言い掛けて、シエルは続く言葉を失った様に口を閉じる。
先に沈黙を破ったのは私だった。

「そばに、います」

「……、」

「何も出来ないけど、私はシエルさんのそばにいますから…」


だから、どうか。

「……後悔する選択だけは、しないで下さい……」

迷わず復讐を遂げる事が彼の為だと思っていた。
例え最後が悪魔に魂を差し出すとしても。

でも、シエル自身が別の選択肢を取りたいと思うなら……そばで見届けよう。
ただ、貴方の選んだ道が後になって後悔する事だけはないように願いたい…。


シエルがゆっくりと此方に振り向いた。

「…心配するな。」

「え?」

「そんなに不安な顔をしなくても、お前が危険な目に合うような事はしない」

私よりずっと浮かない顔色なのに、彼は此方を見つめてそう言った。
……私の事なんて、そんな顔してる時まで気遣ってくれなくて良いのに。

「……、もーっシエルさんっ、私は大丈夫ですってば!このキュートさは向かうところ敵無し!なんですからね」

するとシエルは面食らったように瞬きした後、小さく口元を緩めた。

「僕は未だにその敵無しのキュートさとやらを拝見した事はないんだが」

「なっ…!いつも発揮してるじゃないですかっ」

「ああ、分かった分かった。僕はもう寝るからリユも休め」

「ちょっとーあしらう気ですか!?」

シエルはひらひらと手を振って寝室の方へ向かう。
けれど、その横顔から僅かに笑みが窺えて、私も少し頬が緩んだ。

それからタイミング良く戻って来た執事にシエルの入浴と就寝の準備を任せ、私も部屋に戻った。

けれども何とも言えない不安な気持ちに落ち着かなくなる。
寝付けそうにもなく、暫くしてから部屋を出た。


「……あ、」

ちょうどシエルの寝室から出て来たセバスチャンが廊下を歩いてきた。
彼が片手に持った燭台の灯りが、ゆらゆらと揺れる。
伏せられていた紅茶色の瞳が此方を向いた。

「おや、眠れないのですか?」

僅かに微笑みを浮かべるセバスチャンの表情は、馬車で見たような冷たさはなく。

「紅茶でも淹れましょうか」

穏やかに目を細める彼を見上げて私は戸惑った。

セバスチャンが穏やかに微笑するのは今までよく見ている。
ただ、この表情は何かが違うと思った。

どんな冷たさや蔑みの目よりも何故か私は不安を感じてしまったのだ。

「……セバスチャンさん、……どうかしたんですか?」

思っていた以上に私の声は不安に揺れた。

「何がです?」

表情を変える事なく彼は問い返してきた。
答えに困って口籠もると、燕尾服の執事はそのまま私の横を通り過ぎていく。

「紅茶を淹れてきますから先に部屋へ戻っていて下さい」

「あ、あの……!」

燭台の灯りで廊下に影を落とす背中に向かって呼び掛ける。

「セバスチャンさんは……、シエルさんを…裏切ったりしませんよね……」

ゆっくりと彼が振り返った。
そして、私の言葉を繰り返す。

「裏切る?」

その声にどこか呆れたような色が滲む。

「可笑しな事を言いますね、リユ。私は坊ちゃんの執事ですよ」

「それは、彼のそばを離れたりしないって事ですよね…?」

悪魔であるセバスチャンにとって、昼間シエルが女王を見逃す形となったあの選択は失望したに違いない。

けれど、今の不安定なシエルにはセバスチャンと言う“執事”の支えが必要なのだ。

それに、シエル ファントムハイヴ“伯爵”という存在を成り立たせるにも、セバスチャン言う執事は必要不可欠なのだから。

けれど。

「そばを離れない、と約束していたのは貴女でしょう?」

「……聞いてたんですか、」

セバスチャンは数歩離れていた距離から再び私の前まで戻って来た。

「貴女には少しがっかりしましたよ」

「え?」

此方を見下ろす紅茶色の目が暗い紅に染まっていく。

「もう少し楽しめるかと思っていましたが……。
ただ弱さを舐め合うだけの存在など、坊ちゃんには必要ありません」

彼の冷えた言葉が廊下に響いた次の瞬間。
私の視界と意識は真っ暗な闇に落ちていった。
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