その姫、渡航1/4
「いいか、リユ。」
桜の花弁が舞う夜空の下、シエルは言った。
自分はパリへ行くつもりにしているのだと。
「今度こそ、本当に危険な事になるかもしれない。……それでも、僕の言う事をきいて、付いて来れるか?」
勿論、もう私の答えは一つだけだった。
21世紀を生きていた人間が、1800年代のパリ万博をこの目で観られる日が来ようとは誰が予想出来ただろうか。
「答えは、否!です!!」
「っ!? なんだっ、突然叫ぶんじゃない…!」
斜め前に立っていたシエルが、私の声にびくっとして振り返った。
「すみません、この気持ちを抑えきれなくて」
シエルとセバスチャンの呆れた視線を受けながら、私は肩を竦めた。
シエルは前に向き直ると、此処から見える万博の景色を見下ろした。
執事はそんな主人の隣で万博での催し物を解説する。
エッフェル塔を入場門に見立てたシャンドマルスの会場には美術宮や各国のパビリオンが林立し、機械宮や農業展、植民地博に、アンコール遺跡の再現など。
アメリカからのバッファロービルの出張興行もあるらしい。
「せっかくの万博です。新商品開発の参考の為にも、もう少し回って見ましょうか」
その時、立ち止まっていた私達の後ろを歩いていく二人組の紳士が声を上げた。
「本当か!?」
「驚異宮に天使の剥製があるらしいぞ」
“天使”の単語にはっとする。
シエルも「天使の剥製……?」と呟き、セバスチャンと顔を見合わせた。
「シエルさん…、」
「ああ。」
声を掛けた私に彼は頷く。
私達は驚異宮へと向かった。
「何だ。ただの猿じゃないか」
驚異宮にあるガラスの展示ケースに入っていたのは、羽根の生えた真っ白い猿の剥製だった。
どうみても作り物のそれにシエルは呆れて踵を返す。
「つまらん、次へ行くぞ」
彼の後に続いてセバスチャンと私も展示ケースに背を向ける。
すると突然、剥製が展示されている方から悲鳴が上がった。
私達が足を止めて振り返ると、ガラスケースを割って猿の剥製が中から飛び出してきた。
「嘘っ…!?」
甲高い鳴き声を上げて白い羽根を広げた猿は、真っ直ぐ此方へ飛んできた。
「きゃ…っ、!」
セバスチャンが透かさず、シエルと私の頭を伏せさせてその場に屈み込む。
勢いをつけて上空を飛ぶ猿が、会場の電球を次々叩き割り、あっと言う間に辺りは真っ暗になった。
その場にいる客達が騒いで逃げ惑う中、珍しくシエルも慌てて動揺しているようだった。
騒ぐ声があちこちで上がっている。
が、それを断ち切るような、静かでいて良く響く声が、シエルに呼び掛けた。
「坊ちゃん、落ち着いて。」
セバスチャンがその場に屈んだまま、シエルの片手を白手袋の両手で包み込む。
「っでも、」
「闇の中で生きてきた貴方なら、これ位の薄闇は、何と言う事もないでしょう?」
諭すようなその言葉にシエルがはっとしたのが分かった。
「此処は私が。坊ちゃんとリユは会場の外へ避難していて下さい」
セバスチャンはそう言うと主人から私を見遣る。
「リユ、坊ちゃんと はぐれない様に。」
「はい…っ!」
紅茶色の真剣な眼差しに、私はしっかり頷き返した。
「行くぞリユ、」
シエルが私の腕を掴み、そのまま私達は出口へ向かって駆け出した。
視界の悪い薄闇を、私はシエルに手を引かれながら走る。
完璧な暗闇ではない中途半端さが自分の心情に重なってしまう。
前を走るシエルの表情は見えない。
ただ、しっかりと私の腕を掴むその手は、いつも通りの力強さは感じられない。
物理的な力は籠もっているけど、まるで縋るような……頼りなさを感じてしまうのだ。
闇の中を生きてきたシエルは、闇を知っていてもなお、光で生きようとしていたアバーラインを見て、そしてそんな彼が命を落としてしまって、今どんな心境なのだろう。
もしも、復讐も苦しみも何もかもを捨てて、光の中で生きたいと心から彼が願うなら、私はどうしたらいい……?
だって、シエルが未来を望むと言う事、それは、つまりーー。
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