その姫、鍛練1/3
朝は霧が濃くて視界が悪い。
だんだんとイギリスの寒さを感じるようになったこの頃、私は毎日屋敷の外を走っていた。
持久力をつけろ、これがクラレンスさんもとい師匠からの課題。
走る服装はすっかり着慣れてしまったメイド服。
ジャージを懐かしいとか思うあたり、この世界で過ごした時間の長さを感じさせられる。
だからと言って、もと居た世界に帰りたいとか恋しいとかいう気持ちは殆どないけれど。
ただ、私は……
それにしても視界悪いなぁ。
これじゃ前が見えにく、…いぃっ!?
「Σのわぁっ!?」
突然足下に飛び出してきた黒い塊。
踏みつけそうになり慌てて仰け反ると体が傾いてひっくり返りそうになった。
その、地面に触れる一歩手前。
私はここ何週間かでクラレンスから学んだ事を思い浮かべた。
“受け身のかたちがなってないな。それじゃ頭打つぞ”
“後ろから倒れてるんだから仕方ないですよー”
“だからって背中から地面に突っ込むな。すぐに起き上がれないだろ”
“それじゃあ、だるまみたいに起き上がれって事ですか?”
「っ、たぁ…」
やっぱりまだまだ慣れてなくて私は思いっきり地面に尻餅をついた。
でもまあ、少しは進歩してるよね。
背中も思いっきり打たなくなったし。
ひっくり返る練習も意外と役に立つんだと実感した。
あ、そう言えばさっきの黒いやつはなんだったんだろ。
「にゃーっ」
声のする方に目を向けると霧の中から一匹の猫が姿を表した。
真っ黒で艶やかな毛並みの。
「この子、セバスチャンさんの…」
確かお気に入りの黒猫だ。
実際に見るのは今日が初めてだけど。
琥珀色の瞳を細めて、彼女は座り込んだままの私にゆっくりと近付いてきた。
「意外と人懐っこいんだね、お腹すいてんの?」
「……、にゃあ!」
突然大きな声で鳴いたかと思えば彼女は背を向けて走り去った。
「……?」
何事かと首を傾げていると後ろから巨大な銀毛の魔犬がやってくるのが見えた。
ああ…、そりゃ逃げるよね。
でもまあ人型の時よりマシか。
「何?あんたもお腹すいてんの?だからって私を食おうとか考えんなよ!」
見上げながら叫ぶと、奴は私の襟元をくわえてそのまま歩き出した。
「ちょっ、ぎゃああ!落ちるっ、落ちるって…っ!」
何なのいきなり!恐いってば、離せ!
いや、このまま離されたら地面に激突す…、
「――え?」
うそぉお落ちてるーっ!?
気付いた時には私の体は魔犬の口から離れていた。
そして、重力に逆らうことなく地面に真っ逆さま。
「――っ!!」
物凄い速さで墜ちるものだから声さえ出なかった。
ああ、魔犬に落とされる終わりなんて切なすぎる。
そんな事を考えながら目を瞑った。
「…っと、」
「………、?」
グシャッでもドーンッ!でもなく、ぽすっ、て言う静かすぎる衝撃。
「ご苦労様です。もう行っていいですよ」
頭上から降ってきた声に目を開けた。
私はお姫様だっこの状態でセバスチャンの腕に収まっていた。
紅茶色の瞳は役目を終えたプルートゥを冷たくあしらい此方へ視線を落とす。
「おはよーございます…」
至近距離の美人なお顔に戸惑いながら挨拶すると彼はにっこり微笑んだ。
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