マスターが倉庫に行ってからしばらくして、「う…ん…」と、常連さんが体を起こした。
「……うっ……頭いたっ…。マスタ〜…お水欲しい…」
「…すんません、マスター今倉庫に行ってて。代わりに俺がやりますんで」
「……は、え…?」
あなた、誰?と心の中で言ってそうな顔をしていた。
(私服ですんません、失礼します)と思いながらカウンターに入り、グラスに水を注ぐ。「どうぞ」と差し出すと、「…あ、ありがとうございます…」と控え目に水を飲みだした。多分俺よりも年上だろうこの女性は、誰が見ても分かるぐらい泣き晴らした顔をしていて、目の回りが真っ赤になっていた。
(仕事で何かやらかしたか…。それとも恋人となんかあったか、だな)
そう勝手に自己分析し、新しいお絞りを渡す。
「ご、ごめんなさい…」と今度は謝られ、おずおずと受け取り、下を向きながら目元あたりをお絞りで押さえていた。俺自身、カウンターでの接客はあまりしたことがなく、むしろホールや中の仕事の方が多かったため、いざカウンターの中に入ってみるとどうしたらいいのか分からない。話を振った方がいいのか、それとも黙っていた方がいいのか…。まあ、今日は働きにきている訳ではないので静かにしていれば良かったんだろうが…。
けれど、やはり気になってしまったんだ。
こんないかにも、"仕事一生懸命やってます。大事にしてくれてる人もいます。"って言っているような見た目の人が、こんな遅くまで、泣き晴らした顔をして、バーで一人で飲んでいるなんて。
「差し出がましいかもしんないんスけど…」
「……?」
「なんかあったんスか」
なるべく目は合わせず、やんわりとした口調で聞いてみる。再び席に戻るのも気まずかったため、間をもたせる為にも先程までマスターがやっていたであろうグラス磨きを再開する。やはり触れない方が良かっただろうか。俺が質問してから、彼女はまるで人形のように固まってしまい、しかし俯いているためその表情を窺うことはできない。
「あー…えと、すんません…。無神経でした…」
これだからカウンター接客は苦手なんだ…と心の中で愚痴っていると、「うっ…ぇっ…」と泣き声のようなものが聞こえ始めた。
「(おい、まじかよ…。マスター早く戻ってきてくれ…)」
と思ったのも束の間、「あのクソ野郎…っ…まじでふざけんな…!いつから二股かけてたのよ…。殺す…殺してやる…!」と物騒な単語が聞こえてきた。俺の直感が、これは非常にヤバいパターンのものだと悟る。
「…ねぇ、お兄さん…」
「…は、い」
「あなたのオススメでいいから…飲みやすくて強いお酒ちょうだい…」
「いや、でも、お姉さん飲み過ぎ…」
「…いいからくれって言ってんの!お金ならあるわよ!出さないと刺すわよ…?!」
「(いやいや、それはまじで勘弁だわ。てか、この人思ったより酒癖悪ぃな…。)…じゃあ、俺のオススメで失礼します…」
手早くシェイカーを振り、グラスに注ぐ。今のこの人にはピッタリなカクテルだと個人的に思った。
『マレーネ・ディートリッヒ 』
妖しいブルーが美しいカクテルで、ブルーにパルフェ・タムールの紫、さらにカンパリの赤を入れることで色に深みが出る。ほとんどウォッカなのでアルコール度数はかなり高いらしい。 また、このカクテルの名前に使われているのは実在していた女優の名前らしく、憂いを帯びたハンサムな美女をあらわすにふさわしいカクテル、だそうだ。
まあ、この女優がどんな風貌かは知らないが、女優というだけあってそれなりに綺麗な女性だったんだろう。この人も今はただの酔っ払いだが、きちんとすれば綺麗な女性だろうし、時折見せる表情がなんともいえない、男心をくすぐるものだった。
「…どうぞ」
「…ありがとう」
そう言って微かに微笑む姿は、今なら多分どんな男性でも堕ちていただろう。この俺でさえも危うく持っていかれそうになった。
俺が作ったお酒を飲み始めた彼女は、今まで溜まりに溜まっていたモノを吐き出すかのように再び話し出した。結局のところ俺の勘は大当たりで、年上の彼氏に浮気されていて、しかも相手の女はおそらく自分よりも年下だった、と。約三年も交際し、お互いの年齢のことも考えて結婚も考えていた彼だった、と。
なんていうか、御愁傷様です…。としか俺には言えない。まあでも、話を聞く限り、その男はよっぽど愛されてたんだろうな。それなのにも関わらず違う女と浮気するなんて。…こんないい女逃がすなんて、それこそ、このクソ野郎の方が御愁傷様かもな。
「…お姉さんさ、そんなクソ野郎よりもイイ奴なんてそこら中いるって。そんな奴の為に落ち込むことなんてないんじゃねえの」
「…………そうよね。あんなクソ男、もうどうでもいいや。あの可愛らしい女のとこ戻ってオッパイでも吸わせてもらっとけバーカ…!!」
「…お、おう。その意気だ…」
意外とハッキリ言うんだよな、この人。俺はこういう人案外好きだけど…。……ん?いやいや、初対面だし、マスターの大事な常連さんだし。同情ってやつだよな、うん。
…そう同情だ。同情で流されるものほど恐いものはない。その辺りのことはさすがの俺でも弁えているつもりだ。
………つもりだっただけなのかもしれない。
ーーーーー
「……、ん……いっ、だい…。頭…割れそう……」
余りの頭の痛さに自然と目が覚め、ムクリと体を起こした。
昨日は…なんだったけ……あ、そうそう。彼氏に浮気されてたんだ。浮気現場に居合わせて、女追い出して、彼も追い出して…。一人で居たくなかったからマスターのとこ行って、お酒飲みまくって……。
…そっからどうしたっけ?
…ていうか、私よく一人で帰ってこれたな。
あー、休みで良かった。とりあえずお風呂入りたい。自分酒臭い。てかやけに体がスースーするんだけど。なんで下着だけの格好なんだろう。酔って脱ぐ癖なんてなかったはず。
…んー、私のベッドこんな狭かったっけ。……なんか、体に、巻き付いてる…?隣からちょっとあったかい、人肌のような温もりがするんだけど、気のせい、だよね?ちらりと左を見てみると、もっこりとした布団の中から逞しい腕が伸びていて、ガッチリと私の腰をホールドしている。
「……ひっ…?!!」
(…えっ?誰だれだれ??!今どういう状況?!)
全くもって今の状況が理解出来ていなくて頭を抱える。
(ちょっ、ちょっと落ち着け名前。まず、隣で寝ていらっしゃる方がどなたかの確認を…)
そーっと布団をめくってみて、あっ…と冷や汗が流れた。
(多分…昨日バーにいた人だ…。マジか……マジでかぁ〜〜…)
なんとなく見覚えがあった。私にカクテルを作ってくれた人だ。あどけない顔で、未だスースーと寝ている。多分私よりも年下だ。え、私とうとう躍起になって襲っちゃった?逆オオカミ化した?嘘でしょ?
あまりのショックに言葉が出ない。
(起こすべき?いや、起こさないといろいろとまずいんだけど…。でも…めっちゃ気持ち良さそうに寝てる…。と、とりあえず腕、ほどかなきゃ…)
彼の腕をそーっと持ち上げてみる。と、指の所々にテーピングがしてあり、少し切り傷も多いような気がした。バーテンダーってこんな怪我するような職業だっけ?と馬鹿なことを考えつつ、まずは服を着ようとベッドを抜け出そうとした時だった。
「……んっ……名前……」
急に自分の名前が呼ばれ、心臓がビクッ、と音を立てた。なに、その色っぽい声…。そしてそのまま見つめていると、彼の瞼がゆっくりと開いていく。あぁ…目覚めてしまった…。
「……はようございます…」
「…お、おはようございます」
まだ寝惚けているのか、焦点が合っていない瞳で見つめてくる。
「…あたま、大丈夫ですか」
「…頭…?あっ、はい…!大丈夫、です」
全然大丈夫じゃないけど…と思いつつも答える。
「…体は…、大丈夫ッスか」
「からっ…?!は、はいっ、なんとか…」
待って。もうちょっとオブラートにいこう青年よ。おばさんにも羞恥心ぐらいはあるので。というか言われて気付いたけど、…若干、腰痛い、です。
「けっこう朝方ぐらいまでヤッちゃったんで…すんません…。メシ、俺作りますね」
「……は、はい…。すみません…」
もう、ババア、なんも言えねえ。
何年か前のオリンピックで金メダルを獲った水泳選手の気持ちが、今分かったような気がしました。