※軽いですが嘔吐のシーンがありますので、苦手な人はバック!













それは、まだ伊克椎が十代の頃だ。庭先のアイリスの蕾が膨らみだした頃、その少女は一人の女性に手を引かれてやってきた。

「ごめんなさいねぇ…、ウチもそろそろ子供が大きくなってきたからねぇ」

少女を自分に押し付ける言い訳を吐きながら、女性はそれじゃあね、と少女の頭を撫でる。少女はただ黙って、じっと女性を見上げるだけだった。女性を見送ってから、伊克椎はため息をつく。


「…何でよりによって俺」


この少女は、それはもう遠い遠い、もう遠すぎて親族でも何でもない位遠い血筋の子供らしかった。両親を亡くし、次々とたらい回しにされた彼女が最終的に辿り着いたのが伊克椎の元なのだ。

先程の女性にしつこく頼まれ、頭を下げられ、家に押し掛けられた末に伊克椎は渋々この少女を引き取る事にした。


「…おい」
「…?」

少女はそっと、伊克椎の顔色を伺うかの様に顔を上げた。二つに結い上げられた柔らかそうな髪が、揺れる。

「…お前、名前何つーんだ?」

それすらも、伊克椎は聞いていなかったのだ。少女は少しの間を置き、か細い声で答えた。


「……のく、ろ、です」





それから数日。伊克椎のストレスはかなりギリギリの地点まで上り詰めていたのである。

少女・乃緇が何か手伝わせてください、と言うからやらせてみれば、皿を割る。そして、バケツの水をぶちまける。

「ったく、できねェなら手伝わせてくれって言うんじゃねェよ…」

苛立ちを露にした声に、小さく舌打ちを追加。乃緇は寝ているであろう夜中のため、伊克椎は遠慮無しにぶちぶちと文句を呟く。

「…まさか、あんなだからたらい回しにされてたんじゃねェだろうな」

…いや、あり得る。伊克椎は今度こそ、深くため息をついた。ドアの隙間からこちらを見ていた、悲しげな目にも気付かないまま。





そして、また数日。乃緇はかちゃり、とフォークを置いた。

「…ごちそうさま…、です」
「…おい、まだ残ってんだろうが。食え」

皿にはまだ料理が残っており、伊克椎は眉を寄せる。子供は好き嫌いをするから面倒だ。乃緇はしばらく視線を落としてから、ごめんなさい、と呟いて残った料理を口に運ぶ。

「…食えるじゃねェか、初めからそうしろよ」
「…ごめんなさい」

今度こそフォークを置き、乃緇は皿を片付けようとした。が、伊克椎はそれを制止する。

「また割られたら面倒だからな。もういいから置いとけ」

乃緇は皿と伊克椎を何度か交互に見やり、小さく頷いてぱたぱたと駆けていった。伊克椎はやれやれ、と息をつく。

「ったく…」

乃緇が来てから苛立たしい事ばかりだ、と伊克椎は思った。ただでさえ子供、しかも女の子の扱いだなんて分からないというのに。

「…あいつ、ちゃんと歯ぁ磨いてんだろうな」

伊克椎は立ち上がり、様子を見に行こうとした。そんな時である。ほんの微か、苦し気な声が聞こえた気がした。この家には自分以外に乃緇しかいない。何してんだ、と眉を寄せた伊克椎は廊下に出て、



「ッう、ぇ…、え」



へたり混んで小さな背中を丸める、乃緇の姿を見た。ぜぇぜぇと荒く繰り返される呼吸と、床に広がった“夕飯だった物”に、伊克椎はさすがに顔色を変える。

「ッおい…!?」

薄っぺらい肩を引き寄せ、自分の方へ乃緇を向き直らせる。触れた肌は、熱い。乃緇の目に、さっと焦りや恐怖の色が映った。

「ッごめ、なさい、ごめんなさい、きれいに、綺麗にしなきゃ」
「そんな状態で何言ってんだ馬鹿!熱あるじゃねェか!!」

思わず声を荒げると、乃緇はびくん、と体を震わせる。

「ご、ごめんなさ」
「もういいから大人しくしてろ!」

伊克椎は乃緇を抱え上げ、部屋へ向かう。その体は想像したよりずっと軽くて、胸がずきりと痛んだ気がした。





薬を飲んだ乃緇は、まだ少し苦しそうにしながらも寝息を立てていた。廊下を掃除し終えた伊克椎は、静かにベッドの側に腰を下ろす。

「……こいつは、必死、だったのか」


ちゃんと気付いていたのだろう。迷惑な存在だと、無意識に自分を見てくる目に。

自分の子供ではないからと、家事を手伝わせてくれない家がほとんどだったのではないだろうか。彼らにとっての気遣いと遠慮は、乃緇には壁でしかなかった。だから乃緇は、今度こそ、と慣れない手伝いを望んだのではないだろうか。


「…迷惑になるからって、黙ってたのか」

好き嫌いではなく、食欲が無かったのだ。それなのに乃緇は、嫌われない様にと必死で料理を詰め込んだ。熱が出ていたって、何でもない様に振る舞った。


何一つ、気付いてやれなかったのだ。


伊克椎はそっと手を伸ばして、頬にかかる髪を払ってやる。その時、薄らと乃緇が目を開けた。何を言おうか伊克椎が迷っている間に、乃緇はふにゃりと笑う。初めて笑って、乃緇はこう言ったのだ。


「…手…、冷たくて、気持ちいい…」


敬語という装備は剥がれていた。これがきっと、本当の乃緇なのだ。乃緇は普通の、弱くて幼い、そしてこんなに柔らかく笑う少女だったのだ。

「…早く、寝ろ。起きたら粥、作ってやるから」

ぎこちなく頭を撫でてやれば、乃緇は幸せそうに、泣きそうに笑って目を閉じた。伊克椎はその笑顔に、息を詰まらせる。後悔と自責に続き、優しく湧き上がるそれは、



紛れもなく、愛しさで。



その翌日、アイリスの花が咲いた。そして、二人は、





シスコン覚醒までの話←
初めから仲良しな訳がありませんよね。
乃緇の甘えん坊は、幼い時に遠慮したりしていた分の反動でもあります。
ちなみにちらちらアイリスが出てきてますが、花言葉は「あなたを大切にします」なんですよ。



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