私の好きな人はとても優しくて、とてもつめたい。

上司としては頼れるけど、何を考えているかわからないとか、掴み所がなくて怖いとか、優しそうなこと言ってるけど目が笑ってないとか、口調が冷たいとか。周囲の人たちは彼を上司としては高く評価するが、彼個人の評価はどれもこれもプラスの見解を聞いたことはない。それでも私にとってはとても優しく暖かい、彼自身が持つ能力とは正反対な人だといつも思う。みんなが気付かないならそれでいい。私だけが知っていればいい。クザンさんってもう結構いい年だよね〜いつ結婚すんのかなー、なんて会話で食後に盛り上がっている同僚を食堂に残し、結婚なんてしなくていいし、大きなお世話だよバーーカと心の中で舌を出しながら自室に戻る。ずっしりと重みのある木の箱を手にとって再び部屋を出た。

「…失礼します」

私の部屋よりも大きく厚みのある、部屋の主を守っているようなドアをノックする。ノックする時はいつも深く深呼吸をしてから。急かすように動く心臓に、ちょっと落ち着けと念を送る。顔を見てもないのにこのドアの前に立つだけで嬉しくなるのは何故なのか。ドアの向こうから間延びした返事が聞こえたのを確認してドアを開けた。

「…なに、どうしたの」

本を読んでいたのか、ソファに腰掛けていたクザンさんが顔だけ私の方に向けた。部屋は住人と同じように少し暖かく、間接照明でぼんやりと照らされている。はっきりしない風景に自分の気持ちが重なって、いつもより顔の陰影が濃く映るクザンさんに吸い込まれそうだ。

「お邪魔してすみません。お酒、飲みません?明日お休みだし、この前買ったのがあって」
「おーいいね。食堂行くか」

何日も前から考えていた台詞はバカみたいに早口に聞こえた。本に栞を挟み、クザンさんは伸びをする。違う、そうじゃないのに、と心の中で反論しつつドアをそっと閉めてクザンさんの前まで歩み寄った。いつもこうやって躱される。強く出れずに結局食堂で複数人で飲んで満足に話せないままお開きになるか、私がヤケになって飲んで気がついたらベッドかの2択だ。
一緒に飲めるだけでももちろん嬉しい。ただ今日くらいはわがままになりたい。少し強気に出てみたい。昨日より一段高く積み上げた勇気は目の前の壁を乗り越えることができるだろうか。

「食堂はなんか騒がしいし、ここじゃだめですか?」
「…だーめ」
「え、なんでですか」

うんと背伸びをしても乗り越えさせてくれないらしい。視線をフイと逸らされ、もう一度短くダメ、と言われた。随分昔に聞いたことのあるその言い方、懐かしく感じるのは親のそれに似ているからだ。

「おじさんとは言え俺も男だからね、男女が同じ部屋にいるって言うのはよくないよ。他の奴らがなんて言うか」
「誰も言いませんよ、そうやって女の子扱いしてくるのクザンさんだけですから」

今度はこちらがため息を返すと困ったような唸り声が聞こえた。ただ、そんな反応をされたってこれは事実だ。この職場で男だ女だと言ってくるのはクザンさんだけ。子供扱いされていることは知っている。同時に女として距離を置いてくれていることに少しの希望を見出してしまうくらいには私は崖っぷちだ。

「だから!ね!」
「ね!じゃないの、ほら行くよ」
「なぁんでですか!今日誕生日なんで言うこと聞いてください!」
「だーめ!!」

あと俺一応上司だからね、と呆れたように笑いながらクザンさんは私の腕の中からお酒の入った箱を取ると、片手に部屋の鍵を持ってドアに近付く。

「嫌です!」
「…なに、何か相談でもあるの?どっちにしろ部屋はだめだって」

ドアノブに手をかけるクザンさんの腕を咄嗟に掴む。少し苛立ちの見える声色。今までも幾度となくなんとか2人きりになれないかとあの手この手を使ってきたが、隙がないこの人に通用する訳もなく見事玉砕してきた。当たって砕けろという無責任な言葉が世の中にはあるが、砕けすぎてこっちはもう粉々だ。誰がこの欠片を拾ってくれるのか。

「私のこと嫌いなんですか?!」
「なんでそーなるのよ、…お前もう酔ってるの?」
「飲んでません」

私の手なんて思いっきり振り払ってしまえばいいのに、それはしないのがクザンさんの優しさだということはよくわかっている。だからこそなんとかなるんじゃないかなとか粉々に砕けた私だからこそ、欠片が入り込める隙間があるんじゃないかなとか考えてしまうのだ。

「今日だけです!誕生日なんだから特別に、」
「余計だめ」
「なんでそういう、」
「特別とかだめだろ」

ワントーン低い声が降ってくる。ふと表情を探れば珍しく困ったような顔をしているような気がした。そんな顔をされるとこっちが悪いことをしているような気になってくる。

「…だめなんですか?」
「…こんなおじさんやめときなさい」
「おじさんって思ったことなんかありません!」
「とは言っても年齢はウソをつかないからね。お前は子供だよ」

いつの間にかそっと剥がされた手は行き場を失ってだらんと落ちた。子供じゃないし。成人してるし。逆に意識してるのそっちじゃないですか。色々と感情的に投げつけたい言葉はあるはずなのに、反面、真面目で誠実なこの人はきっといつまでも折れてくれないということも冷静に理解していた。そして何よりもちょっとでも気を抜けば今にも泣いてしまいそうで、今すぐにこの場から去りたくなった。

「もういいです!」
「おい!」

クザンさんの部屋を飛び出したけど、ドアが閉まる音が背中越しに聞こえた以外はとても静かで追いかけてこないんであれば変に走ることはない。走るのをやめて歩き出せば頭の中が急速に冷却されて、後悔がじわじわと顔を出す。恥ずかしさに叫びだしたい気持ちを抑えて自室に向かった。


***


いつもよりも長くお風呂に入って、自己嫌悪に浸った。

枕に突っ伏して恥ずかしさを吐き出した。

そしてベッドに入って目を瞑った。

…残念ながら瞼は絶賛反抗期で、真っ暗な小さなスクリーンは映さなくても良いさっきの出来事を再放送する。時刻はもうすぐ午前3時。まったくもって眠れない。この狭い部屋の中にいたらどうにかなってしまいそうで、カーディガンを1枚羽織ると敷地内にある浜に向かった。


夜空は美しくて怖い。じっと見つめているとこのままこの黒に包まれて消えちゃうんじゃないかという気がしてくる。今ならば大歓迎なのだが。浜辺にごろんと寝転がって星を眺めたが、ひとつも星が綺麗!なんて気分にはなれなかった。
もう本当、いっそ海軍なんて辞めちゃいたい。海より空の方が気持ちよさそう。空ってどうやったら飛べるんだっけ。どんどん現実離れしていく。どうせなら一緒にいろんな感情が消えてしまえばもっと楽なのに。一定の間隔で鳴る波の音は、必死に私を宥めているようだった。


「……なにしてんの。こんな夜遅くに」

きこきこと不器用に自転車をこぐ音は寝ころぶ私の頭の近くで止まった。さっき散々人を拒否しておいて、一体全体どういう風の吹き回しだ。体を起こして砂を払う私をただ見つめている。この場所に来るにはどうしてもクザンさんの部屋の窓が面している道を通らないといけないから、大方夜中にふらふら出歩く私を見て追ってきてくれたのだろう。その優しさ、今はいらない。

「…天体観測です。ていうかそれこっちの台詞です」
「…じゃあもっと見える場所いくか?」

人の誘いは断るのに自分の誘いは断られないこと前提に話を進めるのだから腹が立つ。ほら、と自転車の後ろに乗るように促してくる大きな背中を前にすると、文句もすべて引っ込んでしまう。後ろの車輪の車軸に足を乗せて、クザンさんの肩を掴んだ。

「……クザンさん」
「なーに」

海面がペキペキと凍っていき、その上を自転車の車輪が走る。こうやって海の上を進んでくれるのは3度目だ。1度目は仕事で大きな失敗をしてしまった時。2度目は仲の良かった同期が大怪我をして軍を辞めることになった時。いつもクザンさんは喋らなかったし、私も喋らなかった。夕日が見える時間帯に、誰にも邪魔されない、水平線を最前列で見せてくれていた。今日は夕日はないし、いつもは心地よく感じる沈黙はただ気まずいだけだ。
じゃあクザンさんのことを諦めるのか、と聞かれれば答えはノーだったし、ぼんやりと浮かぶのはこのまま海の向こうまで連れて行ってくればいいのになぁ、だし感情の制御なんてできる訳もなかった。

「クザンさん」
「……なーに」

静寂を終わらせた。星は綺麗だったけど、もうクザンさんの後頭部しか見ていない。

「私ずっと待ってますから」
「…なにを?」

なんでもないように、答えをきっと知っているくせにとぼけたような声が返ってくる。

「私がおばさんになるのを」
「いや意味わかんないけどそれ」
「おじさんであること気にしてるんならそれまで待ってます」
「お前がおばさんの時おれはおじいちゃんだけどね」
「そうやって屁理屈ばっかこねてるからそんな髪の毛になるんですよ」
「…不安になってきたら一応確認するけど、おれのこと好きっていうことでいいの?」
「……あ、あんまはっきり言わないで下さい」

言語化されると途端に恥ずかしくなる。もごもごと言い淀む私にクザンさんは堪えるように笑った。今更何照れてんだ、と言いたいのを我慢しているようだ。

「贅沢は言わないんで、こ、こうやってたまに…一緒にいてください」

笑い続けるクザンさんに勇気を出してそう言うと彼は笑うのをやめ、少し考えてから口を開いた。

「…次の散歩は片道かもしれねぇ」
「え?うーん、なんかよくわかんないですけど。いいですよ。さっき海の向こうまで連れてってほしいなって思ってたんで…エスパーですか?」
「はぁ〜…ホント困った子だね〜」

誰もいない海の上で、「あと誕生日おめでとう」という声が静かに響く。大きな背中に本当は抱き付きたいのを我慢して、緩む口元のまま、ハイ、と返事をした。抱き付くのは、いつか、海の向こうについてからでいい。
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