世の中の大きなことというのは上手くできていて、それで世界は今日も動いている。けれどよく目を凝らして細部まで見つめれば歯車はきちんとかみ合ってなくて、回る度に醜い音を立てるのだ。そこに生まれる小さな痛みなんてものは神様には見えていない。虫眼鏡でもプレゼントしてやりたい気分だ。カリカリと羊皮紙の上を走る羽根ペンの速度はいつにも増して遅い。それはいつも隣でヒントをくれる聡明な彼女がいないからだろうか。キリのいいところで手を止めると羊皮紙を丸めて、入学したころからずっと使っている鞄の中に乱暴に突っ込んだ。そのまま部屋をあとにして談話室におりたものの、わかっていたことではあるがいつもよりも数段そこは静かだった。その光景を見て一つ溜息をつく。彼の相棒であるシリウスはというといつもの悪戯ではなく、女の子とのおしゃべりに夢中だ。談話室を通り抜け『太った婦人』の前まで行けば見回りから帰ってきたリーマスと鉢合わせた。

「どこ行く気だい?君がこんな悪いコだったとはね」

冗談めかしてリーマスが言う。胸元にきらりと光る監督生のバッジ。寮内にいなくてはならないこの時間、それを監視するのは監督生である彼の役目だ。もし今私が外に出てフィルチにでも見つかろうものなら、減点だけでなく監督生であるリーマスも叱られるのだ。

「見逃してくれるよね?…はい」

彼の手にポケットから出したチョコレートを握らせる。掌に乗ったそれ眺めながらリーマスは小さく笑った。

「随分安い賄賂だね」
「まぁまぁそう言わずに」

談話室のいつもの違う様子にはとっくに気付いていたんだろう。『太った婦人』に手をかける私を彼が止めることはなかった。外に出て振り向くと、困ったような表情のリーマスがこちらをじっと見ていた。

「ありがと」
「…こちらこそ」
「……うん」
「よろしく頼むよ」

そう言いながら『太った婦人』を閉めたリーマスに小さく手を振って私は静かな通路をできるだけ音を立てないように歩いた。リーマスの表情は、困ったとかではなく、きっと同情と憐れみだ。多くを語らない分人を観察することが上手い彼には何もかもを見抜かれている。私の気持ちも、何もかも。深く追求しないところが彼の優しさなのだろう。黙って行かせてくれるところも、全くもってよくできた人間だ。そんなことを考えながら天文台までの階段を登る。いつ登っても中盤で息が切れるのだ。魔法学校だのなんだの言うのなら全自動にでもすればいいのに。心の中でぐちぐち言っているうちに屋上までたどり着いた。高い場所にあるせいで少し強い風が吹く。

「ジェームズ」

いつもあんなに傲慢で、自信たっぷりの彼の背中もここにいる時はいつだって小さく見える。私の声に顔を向けることもせず、地面に座って天文台の塀に凭れながら空を見上げていた。私はいつものように彼の隣に行くと立ったまま塀に凭れる。

「今日もだ」

明朗快活なはずの彼の声は夜のようにしんとしていた。こんな彼の声を知っているのはこのホグワーツでも数少ないだろう。シリウスだって聞いたことがあるかどうかは怪しい。

「また『スニベルス』だ」
「……」
「なんでなんだ?僕の方が頭だっていいし、クィディッチも上手いし、性格も、顔も、全部あいつに負けてるところなんてないのに!」

『スニベルス』、セブルス・スネイプのことを彼はそう呼ぶ。私は何も言わず彼の横で立っているだけだ。いつもよりもとても小さいジェームズを上から見つめるだけ。

「今日も止めたんだ。あんなやつに会いに行くのはやめろって」
「…そしたら?」
「『あなたには関係ないでしょう、話しかけないで』って言われたよ」
「……」

何事もソツなくこなしてきたジェームズが初めてぶつかった壁は彼女のことなのかもしれない。どうして、と繰り返す彼の口調は徐々に小さくなっていく。今のあなたの方が「スニベルス」よ、と彼がいつもの調子ならそう言ってやれただろう。しかし彼が天文台にいる時、それはできない。弱くて繊細なジェームズは今にも泣きだしそうだった。

「僕はこんなにも好きなのに」

リリー。呟くように呼んだ名前のあとに聞こえたのは彼が鼻を啜る音だった。また泣いている。親友であるシリウスの前では絶対見せないその表情を私は知っている。それでも私にできることは何もない。涙を拭ってあげることも、震えて泣く彼を抱きしめることも、頭を撫でることも、全部できない。彼が好きなのは私じゃなくリリー、私の親友なのだ。彼にとって私の存在は黙って話を聞いてくれる、シリウスにはプライドが邪魔して見せれない、そんな弱い自分を見せれる親友なのだ。私はそれがわかっていてここにいる。リリーがセブルススネイプに会いに行く夜、私と一緒にいない夜。そんな夜はジェームズは決まってここにいるのだ。彼だってただの一人の少年で、そして本当にリリーが好きなのである。好きな人が、自分の嫌いなやつと会っている。それほど苦しいことはきっとない。同じ寮で、いつだって目の前にいるのに届かないのだ。手を伸ばしても、向こうも伸ばしてくれなければ届かないのだから。その痛みにジェームズは耐えられないのだ。それは私が誰よりも知っている。

「全く、情けないよ」
「何を今更」
「こんな僕の姿を知ってるのは君だけだよ」

参ったなぁ、ジェームズの口から飛び出したセリフを言うべきは私だ。私だけなのに、リリーも知らない、誰も知らないジェームズを知っているのは私なのに。本当に参った。

「これをネタに脅すのはやめてくれよ」
「…人を何だと思ってるんだか」
「……ほんと、ありがとう」
「うん」

ねぇ、私を好きになればいいいのにね。そうすれば誰も苦しくないのに。何もかも上手く回るのに。あ、流れ星、とジェームズが呟いたけれど涙で霞んだ私の目には見えなかった。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -